2011年11月26日土曜日

 原爆の図丸木美術館 maruki gallery for the hiroshima panels

原爆の図 

第1部 幽霊

それは幽霊の行列
一瞬にして着物は燃え落ち
手や顔や胸はふくれて、
紫色の水ぶくれはやがて破れて、
皮膚はぼろのようにたれさがった。
手をなかばあげてそれは幽霊の行列、
破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、
重なりあってうめき、
死んでいったのでありました。
爆心地帯の地上の温度は六千度、
爆心近くの石段に人の影が焼きついています。
だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。
飛んでしまったのでしょうか。
爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。
焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、
声もひどくしわがれました。
お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。
赤ん坊がたった一人で
美しい膚のあどけない顔でねむっていました。
母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。
せめてこの赤ん坊だけでも、
むっくり起きて生きていってほしいのです。
(原爆の図 第1部 《幽霊》 1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)



第2部 火
原爆の図 火

青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風
――天にも地にも人類がいまだかつて味わったことのない衝撃。
次の瞬間に火がついた。
めらめらと燃えあがり、広漠たる廃墟の静寂を破って、
ごうごうと燃えていったのでありました。
うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、
気がついて抜け出ようとして、
紅蓮(くれん)の 炎につつまれていった人。
グラスの破片がざくりと腹につきささり、
腕がとび、足がころがり、
人々は倒れ、 焼け死んでいきました。
倒れた柱の下敷きになり、こどもを抱いたまま、
母親は逃れ出ようとあせりました。
「早く早く」
「もうだめです」
「子供だけでも」
「いいえ、あなたこそ逃げてください。
わたしはこの子と死にます。路頭に迷わすだけですから」
母と子は助け出そうとする人の手をふりきって、
炎にのまれていきました。
(原爆の図 第2部 《火》 1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第3部 水
原爆の図 水

足の方を外側にして、顔を中心にして、死体の山がありました。
顔や口や鼻がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。
焼き忘れられた山の中から、
まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。
本当にまだ生きていたのでしょうか。
それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。
水、水。人々は水を求めてさまよいました。
燃える炎をのがれて、末期の水を求めて……
傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。
水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、
炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、
のがれのがれて、 ようやくここまで来たのです。
乳をのませようとしてはじめて、
わが子のこときれているのを知ったのです。
20世紀の母子像。
傷ついた母が死んだ子を抱いている。
絶望の母子像ではないでしょうか。
母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。
(原爆の図 第3部 《水》 1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第4部 虹
原爆の図 虹

全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。
手を折り、足をつぶした若い兵隊。
病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。
音ひとつない、シーンと水を打ったような瞬間……
気の狂った兵隊が天をさして、
「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。
どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。
日本を爆撃にきたアメリカの兵士が
捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。
原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は手錠をはめられたまま、
ドームわきの路上に倒れておりました。
上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、
雲を呼び、やがて大粒の雨となって、
晴天のまっただなかに 降りそそいだのでありました。
そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。
(原爆の図 第4部 《虹》 1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第5部 少年少女
原爆の図 少年少女



流れに沿い、頭を並べて水をしたい、
そうして累々とつらなり死んでおりました。
末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、
水ものまずに息を引きとったのです。
おとなたちの建物疎開の手伝いに
子どもたちが動員されたのです。
一クラス全滅、というクラスがたくさんあります。
かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。
からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。
この絵をみて、
「わたしの娘はクラスでたった一人生き残ったのです。
けれど手はひっついて内側へまがり、
顔ものどもひっついてしまい、歩くことも出来ませんでした。
身体は十三才のそのときのまま成長しないのです」
と被爆した大工さんは話してくれました。
(原爆の図 第5部 《少年少女》 1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第6部 原子野
原爆の図 原子野
食べ物はなく
薬はなく、家は焼け、
雨にたたかれ、電灯はなく、
新聞はなく、ラジオはなく、医者もなく、
屍や、傷ついた人にウジがわき、
ハエが群生してむらがり、音をたてて飛びかっておりました。
屍のにおいが風に乗って流れました。
人々のからだが傷つくだけでなく、
心も深く傷つきました。
破れた皮膚をおおうことも忘れた人が、
わが子を捜して歩いていました。
来る日も来る日もさまよっておりました。
広島は、
今でも人の骨が地の中から出ることがあるのです。
(原爆の図 第6部 《原子野》 1952年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第7部 竹薮

原爆の図 竹やぶ

人々は竹やぶへのがれました。
地震ではない、だが何でしょう。
焼夷弾のかたまりでしょうか。
爆弾にはちがいない、いや、殺人光線だ。
なにしろ、ピカッとしてドーンとひびいたのです。
いいえ、広島ではドーンは聞こえませんでした。
あまりの大きさでしたから、ピカです。
「ピカの時にゃ」と話します。
広島の郊外には竹やぶがたくさんありました。
竹も片側が原爆でやけどをしていました。
家を失った人びとは、竹やぶへ逃れていったのです。
そうして次々と息を引きとっていきました。
「助けてくれ」と呼ばれても、助ける勇気はなかったのです。
もうこれ以上、わたしたちの家に収容しきれなかったのです。
三滝の橋の下は屍でいっぱいでした。
その中に、年もわからず、男か女か、
生きているらしいと思われる人がうずくまっていました。
八月二十六日の朝、頭を落として死んでいました。
原爆が落ちたのは八月六日でしたから、
二十日間、じっと耐えていたのです。
屍の片づけをする人もなく、九月に入って台風となり、
たくさんの屍たちは海へ流れていきました。
(原爆の図 第7部 《竹やぶ》 1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第8部 救出
原爆の図 救出

いつまでも火は燃えつづけておりました。
ようやく身よりの人を捜して連れて帰りました。
けれど、途中でこときれていきました。
配給があるというので行列がつづきました。
乾パンを抱いたまま、娘は死んでいきました。
わたくしたちの妹のむこの両親は、
二人ともガラスの破片が全身にささっていました。
足首も、ももも、同じ太さにはれていました。
わたしたちのところに避難していましたが、
長男のところへ連れて行くことになりました。
荷車にのせて引いて行きました。
爆心地を通って海田市まで行きました。
しとしと、雨の降る日でした。
原爆のあと、広島ではよく雨が降りました。
八月というのに寒いような日が続きました。
本当は、「かあさんごめんなさい」といって逃げてきたんですと、
泣いている人がいます。
妻は夫を、夫は妻を、
親は子を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。
救出がはじまったのはしばらくしてからのことです。
(原爆の図 第8部 《救出》 1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)







第9部 焼津
原爆の図 焼津

1945年、ひろしまに人類はじめての原爆が投下されました。
続いて長崎にもう一発
そうして、ビキニ環礁で人類初の水素爆弾が爆発しました。
久保山愛吉さんが亡くなりました。
日本人は三度、原爆水爆の犠牲となったのです。
【後記(1983年5月)】

日本人ばかりではありませんでした。
ビキニ環礁の近くのミクロネシアの人びとは
水爆の死の灰をかぶりました。
島全体が汚染されてしまいました。
島を追われた人びとが、生まれ故郷ビキニへ帰った時、
残留放射能を受けてガンや白血病で倒れ、
傷つき、今も苦しんでいるのです。
焼津とビキニ。
それは宿命の兄弟となったのです。
(原爆の図 第9部 《焼津》 1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)




第10部 署名
原爆の図 署名

原爆やめよ、
水爆やめよ、
戦争やめよ。
東京杉並のお母さんたちの呼び声は
日本中にひろがりました。
こどもも、お母さんもお父さんも年よりも、
ありとあらゆる職場の人が署名しました。
民衆の声なき声が声となり、
このように平和を求めるたくさんの署名が集まったのは、
はじめてのことでした。
(原爆の図 第10部 《署名》 1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)



第11部 母子像
原爆の図 母子像

家の下敷きとなり、燃えさかる中を、
親は子を捨て、子は親を捨て、
夫は妻を、 妻は夫を捨てて
逃げまどわねばなりませんでした。
それがほんとうの原爆の時の姿なのです。
だが、そうした中で不思議な事に
母親が子供をしっかりと抱いて、
母は死んでいるのに子供が生きているという、
そんな姿をたくさん見ました。
(原爆の図 第11部 《母子像》 1959年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第12部 とうろう流し
原爆の図 とうろう流し

8月6日、広島の七つの川はとうろうであふれます。
父の、母の、妹の名をしるして流すのです。
流れ終わらぬうちに潮は逆流し、
あげ潮にのって、とうろうはもどってきます。
火はすでに消え、
折り重なって暗い流れにただよいます。
それはあの時、
屍に満ちて流れた川と同じ太田川なのです。
(原爆の図 第12部 《とうろう流し》 1968年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第13部 米兵捕虜の死
原爆の図 米兵捕虜の死

あなたの落とした原爆で
わたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆で
あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。
ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から
落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、
どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。
ひろしまを訪ねて驚きました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは
やがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に
日本人が虐殺しているということを知りました。
わたしたちは震えながら
米兵捕虜の死を描きました。
(原爆の図 第13部 《米兵捕虜の死》 1971年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第14部 からす
原爆の図 からす

韓国・朝鮮人も日本人も同じ顔をしています。
被爆したむざんな姿はどこで見分けることが出来ましょう。
『原爆がおちゃけたあと、
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが
朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)
屍にまで差別を受けた韓国・朝鮮人。
屍にまで差別した日本人。
共に原爆を受けたアジア人。
美しいチョゴリ、チマが。
飛んで行く朝鮮、ふるさとの空へ。
からす完成、謹んでこれを捧げます。
合掌。
長崎の三菱造船に強制連行された
韓国・朝鮮人約五千人が集団被爆しました。
ひろしまにも同じような話があります。
今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が
原爆手帖さえなく暮らしているのです。
(原爆の図 第14部 《からす》 1972年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


第15部 長崎
原爆の図 長崎

めざしていた小倉は、
厚い雲におおわれていました。
B29 2機は、第2目標の長崎の港にまわりました。
ここも視界が悪いため、
街の中心をはずれた 三菱製鋼に
原子爆弾を投下したのです。
それは、浦上カソリック教会の頭上で炸裂しました。
ちょうどその頃、礼拝にきていた信者さんたち、
神父さんも亡くなりました。
天主堂を中心として、
死者は輪になって延々とひろがり増えていきました。
長崎の原爆はプルトニウムというものを材料としていて、
広島より強力なものでありました。
もう一発の原爆。
打ちくだかれた長崎。
14万人が死にました。
(原爆の図 第15部 《長崎》 1982年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)









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