2012年2月5日日曜日

新しい「世界」をデザインする 2004 年 三木俊治氏

新しい「世界」をデザインする

[目次]
まえがき
第一章 生活の原点を考える
第ニ章 人間ひとりの生活のために何が必
要か
第三章 地域の生態系で生きる
&コラム'土地はだれのものか
&コラム'土地貸与
&コラム'阪神大震災後の「都市」観
&コラム'大量生産方式
第四章 地域間の「外交」
第五章 地域を設計する
第六章 新しい「文化圏複合」としての地球
~文明デザイン~
&コラム'都市解体
&コラム'
第七章 全く新たな文化複合を作り出す事はで
きるか
第八章 国民国家の終焉
第九章 世界憲法
第十章 新しい地球創造へのステップ
&コラム'「組織」に信用はあるか
第十一章  世界憲法によるひとつのモデル
&コラム'資本主義を装置に



まえがき

今、日本人は誰もが1つの予感と共に生きていると思い ます。
それは,このまま現在の生活が続けられるのだろうか, ひょっとすると人類は破滅してしまうのではないか,と言う 漠然とした危機感です。


そこでまず、よりましな世の中にするには何をどのように していけばよいのか、それを考えてみたいのです。


文明の問題というのは個人が考えてどうこうなる、とい うものではありません。しかし、個人の意識がなければ社 会の状況も変わらず、また同時に今の日本では個の問題 だけでは解決しない、大きな地域-国や世界の政策レベ ルのこともひとりひとりが考えていかなければならない時 代が来ていると思います。 これまでの日本では、地域作りという仕事は、かっては 官僚を中心とした政府の仕事でした。産業と官僚と学術 の現場が連携して進めるような国作りプロジェクトといわ れるものもありました。
しかし現在の世界は、一部のリーダーシップだけで問題 が解決できるほど簡単ではなく、環境問題ひとつにしても あまりにも数多くの問題が、地域をまたいで存在します。
このような時代には、国という広さの行政の話だけして いてもだめです。ましてや不況などで、本来の事業規模す ら縮小せざるを得ない日本の現況では、「100 年先を見と おすようなリーダーシップ」の実現は考えられません。


私達市民が、それぞれに国や世界の先行きについてイ メージと想像力を発揮し、具体的にアクションを起してい かなければならないときが来ているのです。
第一章から六章までは、現在の世界の中から「必要な ものをピックアップする」という考え方で個人の生活を、そ して七章から後半では、これまでの文明のあり方そのもの について疑問を投げかけ、文化圏とその複合による世界 の再編という考えを提案したいと思います。この本の最後 の目的は、単に私のデザインした世界を皆さんに見てもら うことではなく、これをヒントにして皆さん一人一人が、そ の独自な形で、より幸福に皆が暮らせるような地域作りを 発想し実現してもらう事です。




第一章 生活の原点を考える


人間の生活の原点は、「個人的な営み」です。こういう所 に住んでこういう生活がしたい。それに尽きます。 でも、現代特に都市社会では、社会のシステムと制度が 先にあって、個人はその中に埋没してそれに合わせて生 きていく、という形になってまいす。 このシステムと制度、というのは曲者で、現在の環境問 題や紛争などは基本的にはシステムの問題といえると思 います。


システムが大きく複雑になりすぎて、本来の意味や目的 からはなれて一人歩きするようになった結果として、個人


が不幸になってゆく、という現実は、変えようがないでしょ うか。 時間がかかるとは思いますが、それは可能だと思いま す。


今マスコミでよく話題になるのは、「地域」という概念で社 会をとらえなおすという事ですが、私は一歩進めて
[個々の生活者とし必要なものを積み上げていった結果] として社会全体を考えていく事が結局は環境問題や世界 平和にも貢献すると思います。 この本では、私は個人的欲求から出発して、こういうも のが必要でこういうものが不要という社会を組みたててみ ることにしました。


第ニ章 人間ひとりの生活のために何が必要か


スーパーの買い物を例にとりますが、紙パックの牛乳、 パック入り納豆、同じく牛肉、ポリ袋入りのパン、ラップさ れた青菜がここにあります
この中には私の少年時代になかった、不用で困るもの が色々とあります。一連の包装資材。そしてパンや納豆タ レなどにはいっている食品添加物。 小さい頃、買い物に行くと野菜は新聞紙でくるんでくれま したし、牛乳は瓶にはいっていました。また、納豆に原料 不明のタレがついているなんていう「サービス」はなく、ロ ウ引きの紙や竹皮に包まれているだけでした。 毎日の買い物で蓄積されるこれら資材の量は大変なも


ので、同時に身体に取りこまれる合成添加物の量も大変 なものでしょう。&注1' 昭和初期のように、食品をバラ売りにしましょう。好きな 量だけ、好きなものが買える。山積みにしてもらって新聞 紙でくるんでほしいのですが、そういう店は大都市ではと ても少ないです。あらかじめ決められたものが、決められ た量だけしか買えないスーパー方式って、本当に合理的 なんでしょうか。


人間ひとりが単に生活していく分には、それほど複雑な ものは必要ないと思います。本来「文化」的に豊かになる べき所に金をかけられず、いらないもの・困ったものに多 額の金を払わされている、そういう気がしてなりません。 皆さんはいかがですか。 いらないものをどんどん開発してゆくのが現在の製造業 だったりアイデア産業だったりするというのならば考えない といけません。そういう雇用は業種転換すべきです。
資源は有限だからです。つまり、これからの時代、自分 の地域をまともな文化圏にしたいと思ったら、次の事が重 要だと思います。

1.必要なものを考える
2.不要なものを廃止する
3.不足なものを開発する

そこでまず、「人間ひとりが住む上で最低限のコストで暮 らすための必要なものはどれだけあるのか」というのをリ ストアップすることにします。 勿論、東南アジアのように気候がよければ道端の木の


果実を食べ、路上で生活するという事もできますから、こ こでは一応「文明の道具」を使用し、雨風がしのげて定住 生活ができる、という現在の日本の状況と遠くない条件を つけます。

&生活の場'
1.土地 2.住居  3.農地
&ライフライン'
4.水道 5.電気  6.熱源
&生活具'
7.家具 8.仕事用具
&社会的機能'
9.市場&いちば'  10.医者 11.通信機器

以上、大体生活に最低必要なものは11項目でOKとい うことがわかりました。


注1  現代日本人が死ぬまでに平均して摂る食品添加物 の量は25kgに上るという試算がある。




第三章 地域の生態系で生きる


私は大量生産を利用した不用・無秩序な消費という現在 のスタイルから抜け出るためには、ものの出入りがある程 度その地域で完結している、という考え方もとり入れること は必要だと思います。個人宅の自給自足システムは、あ


るその1つと言えると思います。 例えば前章の「暮らすために必要なもの」という点で言え ば、100パーセント自給経済で、食料からライフラインに 至るまでその家の中で完結していて、現金は家の外との 取引&例えば商店で日用品を買うとか'にのみ使う、という 事です。 これは特に目新しい考え方ではなくて、近代化する以前 の日本では各家庭での食料自給率は確実に現在の都市 生活よりも高かったと思います。そういう意味で、私達の 生活は退化しています。 第二章で「必要なもの」としてあげた畑や医者など11項 目をもとに、「新しい地域の単位としての個人住宅」のあり 方を自由に発想していくことにしました。発想するだけでし たらお金はかかりません。
1.土地 日本で戦後、一畤庶民から遠のいたものが土地です。
土地に関しては、基本的には無償貸与制です。それも
国が管理するのではなく、地域で管理し、共同体で貸与に
責任を持ちます。別に新しい方法ではなく、社会主義圏で
は実際に行われてきた方法です。持分をオーバーして土
地を持ちたいという人には、有償で貸し出すというようなこ
ともできるでしょう。

貸与制にすることによるメリットは大変多く、住宅が安価 に建てられることや、企業による悪質な環境破壊が未然 に防げるだけでなく、すでに始まった環境破壊についても 有効である、という事です。ただし、重要な点がひとつ。貸


し出す主体は「地主」や「地域議会」といった機関であって はなりません。窓口を機関にすることは行政を行っていく 上で仕方ありませんが、あくまで住みたいと願う人達の間 での、合議にもとづきます。基本的に地面は誰のものでも ない、という発想に基づくことが必要です。 土地を財産とすることは、定住して農業を行う文化圏の 発想。現代では主流の価値観ですが、あまり貧富の差を つけないためにもコミュニティの共同管理にして、貸与制 にしたほうがいいでしょう。相続税の悩みからも解放され ます。 一件夢のような話かも知れませんが、日本という地域に 住む、例えば全員が賛同すれば極端な話、今日からでも 実行可能なわけで、要は色々と利益の絡んだことなので 難しいと思っているだけのような気がしますね。つまり社 会制度というものは、ある角度から見れば幻想のようなも のとも言え、それはベルリンの壁が一瞬にして崩壊したの を見れば納得いただけると思います。


他の実例をあげましょう。いわゆる車社会が到来する前、 昭和40年初頭の頃、地方では、「青空パーキング業」とい う仕事はありませんでした。観光にしろ、仕事にしろ、どん な辺鄙なところでも全国的に車を駐車させることで金をと る、という業務はなかったわけです。このような状況になっ たのは、昭和50年以降のことです。私の住んでいる川西 市近辺でも、何の設備もない空き地に車を入れさせて金 をとるという青空パーキングが、かつて多くありました。こ れらは、誰かがやるから私もやる、といった安直な発想で 始まった商売で、そうこうするうちに住宅と一緒に、「土地 の有効活用」という神話に格上げされました。


住宅地は、60年代高度成長期にぶちあげられた「所得 倍増計画」そして投機で儲けることを目的とした不健康な
80年代のバブル経済等にリンクし安直な地価操作をした のが「暮らしにくさ」に直結してきた原因なわけですから、 意識の持ち方次第で、新しい発想で土地を解放してしまう ことは簡単にできるのではないでしょうか。


長年のローンに追われることなく、ゆとりの生活を過ごす ことができれば、芸術や社会貢献に費やす時間が増えて、 精神的に大変豊かな暮らしができます。これは非常に大 切なことです。
「ゆとり」の教育とか、ゆとりの老後、とか言いますけれ ども、孫・子の代まで借金をしなければならないような住 宅政策なんて、ゆとりとは程遠い。土地は公有制、一代貸 与を基本にしたシステムを考えるべきでしょう。 コンクリートだらけの都市が、全く違った緑豊かな地域と して変身すれば、そのうち地方と都市の違いはなくなって いくでしょう。現状の都市住宅様式では現金がないと即、 飢えて死ななければならず、それは逆説的に聞こえます が動物社会的な原理だといえると思います。生存に対す るリスクを自然界よりも低減するのが人間社会を形成する メリットなわけですから。
&コラム'土地はだれのものか もともと奈良時代にさかのぼり、日本国家の統一を目的とした班田
制&6 才以上の全人民に、男女良民・賎民、定められた水田を与え
る'を端とみなすことのできる「農地の私有制」。
これは税金の徴収を目的とした戸籍制とむすびついたものであり、
西洋的な意味で言うところの個人の独立と人権をもとにした土地解放


でないことは明らかでした。現在では、その「個人による土地私有」が、 今度は戦後資本主義とむすびついて、土地の流動性を阻んでいるわ けですが、本来土地は、誰のものでもない。そもそも地球上に人類が 現れたとき、地面に名前やら値札がついていたでしょうか。そんなこと はないのです。 社会制度を作って行く上で、例えば荒地を新たに開墾したような場 合、貸与制の枠から外れて開墾した人がその土地の優先的な利用 権を持っていると考える事は可能ですが、その人間が死んだ後にそ れを子どもが継ぐかどうか、という問題は、これから論議の余地があ ると思います。 現代では、核家族化が進んでおり、親と子どもが別々の職業や住 居を持っている、という形が大変多くなっています。このような時代に は、無意味に相続税だけのかかる現在の土地永代私有制度は矛盾 が多すぎます。親が死んだら、新たな場所で新たな土地を借りる。ひ とつの世代がひとつの場所を占有する。このシステムを使ったほうが、 より自由でコストの低い生活が可能です。 もうそろそろ、土地を流動的に貸与できるシステムを作ってもよい時 期に来ているという気がします。

&コラム'土地貸与 土地貸与の決裁主体を地域にしておくと、企業の開発に対してだけ でなく国の無謀な公共事業等も阻止できます。今問題となっている、 国主導の‘大型ダム’や’河川の可動堰’等の無駄な公共事業。これ らは個人に対するのと別の、極めて厳しい審査や貸し付け条件の下 で、地域が国に公共事業用の土地を貸し付ける、という方法にすれ ば、違法なことがあればすぐ返還させることができます。その中に現 状復帰などの条件を入れておくことも重要でしょう。これこそ本当の地 方分権で、地域の主役は地域の住民だという発想です。 地域に決裁をまかすと、ミニ開発のような地域エゴが乱発するので はないかという危惧もあるかも知れませんが、これは後の章で述べる、 世界を覆うような最高法規を考えることで解決できるでしょう。

2.住居


コストをかけずに楽しく暮らそうと思ったら、不要なものを 廃止することが重要です。現在建築メーカーのカタログま かせになっている家は、ひょっとして手抜きの上にやたら と手数料などがかかっているのではないでしょうか。 家は、自分で作れます。 基礎の施工がなかなか難しいものですが、そこはプロに 頼むとしても地上部分は自分でできます。皆金もうけに忙 しくしなければならないので、なかなか現実にはそうはい きませんが、地域の素材を活かして「家のキット」などを売 り出せば、とても安いコストで建てられるのではないでしょ うか。
3.農地 食品の理想は自給自足ですが、現実的に完全な自給
自足などと言うのは現代人には無理だし、能力と余裕が
なければなかなか難しい、というのも事実です。しかし昨
今の食品安全性の問題を考えると、野菜と穀物は自前の
畑で作りたい。畑を作るためのスペースは、絶対に欲しい
ものの1つです。
現実問題として都市で畑を持つのはなかなか難しいも
のがあります。今の社会では、都市のすまいと言えばア
パートだし、一戸建てにしても、畑がついているようなもの
はありません。
それなら、今の都市の設計が基本的に間違っているとし
か言えません。畑が作れなくなるほど密集して家を建てて
しまう都市を作らない。作らせない。皆で考えて、そういう
ルールを作ってしまったらどうでしょうか。「3.足りないも
のを開発」ということです。


さらにもう少し、こう考えることもできます。災害に対して 危険な、特に人口密度の高い都市は解体してしまう。大 変なことかも知れませんが、やり方が完全にないわけで はありません。逆に災害を利用するのです。 例えば日本は地震国ですから、とんでもない大地震がき た時にでも、再開発と称して今までと逆をやります。建物 をごちゃごちゃ建てず、都市機能を適当に分散させる、と いう方法です。一見何も考えていない案のようですが、災 害が来れば、また必ず再開発と称して、建設会社の利益 優先のまちづくりをして以前より悪くするものです。 一度ぐらい、消費者が主役になった再開発があってもい いのではないでしょうか。
4.水道 自分ひとりで暮らすのであれば、水道は地下水やら雨水
や河川からの引きこみでいいと思います。水道・電気・熱
源といったインフラは、最近では「都市計画」が先にあって
そこに組みこまれるというのが主流ですが、これがいざと
いうときにどれほど不便で無能か、私達は阪神大震災で
身に沁みて知りました。
公共水道は、集中管理のため、災害時には全体があっ
という間に機能しなくなります。となりに行ったら助かると
か、分けてもらうといった対応が一切できない。これは本
当に困ったことで、こういう面からも都市は解体しなけれ
ばならないという気になりますが、その他にも、汚染につ
いても一括で汚染されてしまうので、今問題になっている
環境テロなどへの対応力も大きな不安の1つですね。水
源地に青酸カリを放り込むようなテロが現れたら、と考え


るだけでも結構恐ろしいものがあります。 勿論、地下水や河川の引きこみで自家用水を調達する、 というのも、今の日本では決して安全な方法ではありませ ん。地下水は、企業活動による有機溶剤やPCBなどの化 学物質、重金属等で確実に汚染されていますし、河川に 至っては生活廃水と工業排水のダブルパンチで多重汚染。 これらをどう除去するかといった、技術を要する課題に、 たちまち個人レベルでも直面することになるのです。 そういう意味で、どんなにシンプルに暮らそうとしても、私 達が文明の道具から離れて生活することは現在では不可 能です。ただ、色々な道具の作り方や使い方について考 えなおす時期に来ているということだと私は思います。

(コラム)阪神大震災の後の「都市」観

1995 年 1 月に関西を襲った阪神大震災は、神戸と大阪を中心に甚 大な被害をおこしました。国道2号線を西宮市から神戸市に向って走 ると、当時は道の両側のビルが倒壊したため、道路の左右が非常に 見晴らしがよく、高層建築がなければ都市もこんなに風通しがいいの だ、というおかしな感慨を持ったものです。 その後各市が考えた、復興計画の中心には、防災の観点から道路 の拡幅や延焼を押さえるための緑地帯等の考え方が入っているもの もありましたが、基本的には高層建築を中心とした都市のスタイルそ のものを考える契機にはなりませんでした。もちろん、インフラ等につ いても、基本的には早期の現状復帰が課題とされたために、システム そのものを考えなおす、という時間がなかったように思います。結果と して起こったのは、再建の資金力のない市民を追い出して、住宅であ ったところに地域外から参入した企業のビルが建ったりしただけという 印象を強く感じるのが地元の人間としての感想です。

5.電気




低コストで、なおかつ文化的生活をしたいという贅沢なこ とを言えば、電気も自前で調達したいのが本音です。まし てや、今日本で主流の、災害時あてにならない一括管理 と、危険きわまりない原子力発電への依存は、できれば 一刻も早く縁を切りたいところです。 しかし、結論から言えば、太陽光発電も燃料電池も、化 石燃料の代わりにはなりません。代替エネルギーといって も、その装置の開発、維持には別のエネルギーを使う。結 局何らかのエネルギーは現在のところ輸送性の最も高い 化石燃料に依存しなければならないわけで、ソーラーパネ ルの開発と販売・維持の裏で結局大量の化石燃料を使っ ているのなら最初から火力発電にのみたよったほうがい い、ということなります。発電に関して言えば、ある程度ま とまった規模の施設で作ったほうが環境破壊は逆に少な い。 ただ、私達にできることはあります。まず、極力自前でで きることはやる、ということで、冷暖房の変わりに住宅構造
を考えなおす、とか、直流モーターを利用した発電だとか、 災害対策として小型発電機を備えるといった方策です。
6.熱源 日本の都市では、加熱処理にガス以外の選択肢がほと
んどありません。地方でも、都市ガスの来ていないところ
はプロパンガスのボンベが主流です。これらはやはり1つ
の場所で社会基盤をコントロールしている一元管理方式
で、大変リスクが高い。阪神大震災の時、ガス管が折れて
目の前でガスがシューシュー音をたてているのに、「一旦


閉めると復旧に時間がかかる」という理由で大阪ガスが早 急にロックをしなかったため、火災が拡大したのでは、と 私は今でも思っています。 調理と暖房に、化石燃料を使ってしまうのが、現代生活 の特色と言えます。しかしこれは、電力と畩なり方法を多 様化することが可能だと思います。ガスだけでなく薪や動 物の糞など色々なものを燃やせるタイプの暖房兼調理装 置や、太陽熱を直接利用するタイプの暖房兼調理装置。 これまでの加熱器具開発の業界は、まだまだ創意工夫の 努力が足りないと思います。
7.家具などの生活品 ひとりで暮らすのに家具がどれだけいるのか、というと、
とりあえずないと困るものは衣服と寝具と食器・衛生用品
ぐらいでしょう。これらの調達と収納に、コストと資源をか
けるのはばかげています。たんすやら収納家具に石油製
品を使うのは、特に避けたい。一畤いいのは、モノを持た
ないことでしょう。最も難しいことでもありますが。最近、
色々な道具を使った収納がブームになっていますが、収
納するためにまた石油製品を買いこむ、というのは順序
が逆なんじゃないのと思います。
8.仕事用具 これは一畤大変。現代社会で何かの仕事をして社会と
関わっていくためには、それだけで大量の化石燃料を消
費する。かといって、仕事のためのFAXとか紙だのの設
備を持たないわけにいきません。資源が必要最小限で済


むようなシステムと、無駄な社会慣習を即止める必要が 迫っています。真夏のスーツとネクタイ、なんにでも新しい 紙を使うオフィス、リサイクルしない機械の群れ。問題は 山積しています。 仕事そのものの中で環境に関わるあり様を常に考えた いです。
9.市場&いちば' 市場は、モノと人、すなわち情報の交換・交流される場
所です。最もエキサイティングな「場」であり、古来から都
市機能の中枢でした。しかしそのためには、いちばを「地
域の場」として取り戻す必要があります。スーパーマーケ
ットのような、画一的で集中管理されたものだけがハバを
きかせている現状では、人的交流の場としての市場は復
権できません。
まともなものつくりとまともな商売人のいるいちばは、こ
れからの日本に絶対必要なもののひとつだと思います。
10.医者 人間に生老病死がある限り、医療は、どうしても必要で
す。最近は不潔な大病院で、身体中にパイプをつけられ
て死ぬことが多いようですが、こんな状況で人間の誇りが
保てるのでしょうか。私は往診をしてくれるような町医者が
もどってくればいいなと思っています。
・医療の原点とは何なのか
病気というのは、身体のバランスがくずれた状態である
と私は定義しています。外傷にしても、広い意味でいえば


物理的にバランスが崩れた状態と言えると思います。 バランスが崩れた状態は、自然界には色々とあり、自然 界にはもともと様々なエネルギーが混在・均衡しながらあ るわけですからごく当たり前な状態のひとつだと言えます。 身体は、バランスの崩れが発生するとその均衡をとろう とする能力を持っています。従って、基本的には医者の使 命はそれを手助けすることで、外科的な疾病以外につい ては物理的なサポートよりも精神的サポートのほうが大き いと思います。
私がこう言う背景には、総合病院特に大学病院の医者 には、患者をモノとしてしかみていないような、人権を無視 した対応をする医者が多いという体験を持っているからで す。居丈高だったり事務的だったり。


近代医学からは不治の病を宣告され、寿命 3 ヶ月、とい われたような人が、宗教の力を借りて完治した、というよう なことをよく耳にし、目にもします。なぜ医者にできないこ とを、宗教がやれるのか。医者はそういう役割を果たすこ とができないのでしょうか。ひょっとして近代医学は、人間 をあまりにも単純化し、モノとしてしか見ていないのではな いか。そういう思いがします。 医は仁術、などというと、時代錯誤もはなはだしいと言わ れるかも知れませんが、病気を治すのは本人の意思であ って、医者にはもっとメンタルな訓練をしてもらわないとい けないと痛感します。

11.通信機器 後で民主的な地域作りに際して情報の共有がいかに大


事か、という事を述べますが、情報の共有手段として通信 機器の存在は大変便利なものです。小型端末、メール。 ただし現代は、こんな便利さは管理社会や監視社会の危 険と表裏一体であるという危機感を常にもたなければなら ない時代です。 そのためにも、個人のプライバシーといった点も含めて 大きく議論をしなければならないように感じます。情報をど う流すか、というよりも、どう守るか、という新しい観点が必 要だと思います。


&コラム'「大量生産方式」 私は、大量生産方式そのものに疑問をなげかけるものではありませ ん。大量生産といっても、その規模によります。一元的に、一箇所で、 全ての人々に対応するような生産はあぶない。それで、能力と集中の 適当な分散を提案しています。大量生産方式の評価すべきところは、 少なくとも社会の階級化をある意味で阻み、財の公平な配分に役立 ってきたという事だと思います。 なぜ量産方式が社会の階級化、つまり差別を生み出す構造を阻ん できたと言えるのか。私はこう解釈します。
「ものを所有する」という行為は、そのモノの内容と性質によって社 会の特定の階級とむすびついています。私は音楽を嗜みますので楽 器を例にとって話しますと、ヴァイオリンのような西洋楽器にしろ、筝 のような邦楽器にしろ、いい材料で手間をかけて作られたものは高い。 それを所有できる人は、お金もちであったり、特別にゆるされた人で あったり、つまり階級の高いところにいる人しか接することの出来ない 世界になります。しかし量産方式は、多くの人に楽器が行き渡る機会 を提供しますから、多くの人の幸福に寄与することができる。そのよう な意味で、身分を越えた財の配分という意味で、貢献してきたと言え ると思うのです。

量産方式の出発点には、人間の幸福、というテーマがあったと私は 信じています。ですから、問題があるとすれば、その方式よりも生産 する「もの」の中味や、また無秩序にそれを浪費する、


・規範のない生産者
・規範のない消費者
の出現だと思います。

量産についてはもうひとつやっかいな問題もあります。量産の材料 に、稀少資源を使うと環境問題を引き起こす、という事です。 これは最終的には「バランス感覚」の問題で、この本ではバランス感 覚を失わない生産活動とはどういう規模で行うのか、というところまで 考えていきたいと思います。




第四章 地域間の「外交」


前の章では、地域の小さな生態系という考え方で個人が 家を持つとしたらどうなるか、という仮定をしてみましたが、 のっけから土地やらインフラ面でなかなか完結など難しい ということになってしまいました。 が、可能性を追求してみましょう。
1.土地 から 11.通信機器 までの各パートに分けた 中で出てきたように、個人が生活を文化として主体的にコ ントロールするためには、今の社会は動きづらいところが あるなあ、ということがわかるだけでもいいことだと思いま す。
●個人の独立がなければ地域の独立もない なぜ私が地域の中の小さな生態系や個人生活の主体
性にこだわるのか、といいますと、基本的に個人の生活が


独立していなければ地域としての独立の問題も考えられ ないだろうと思うからです。 家庭があたかもひとつの国のような独立性と尊厳を持ち 得て、初めて地域に対する愛も存在するのではないでしょ うか。 前章で、地域の小さな生態系に近づけるために障害に なった部分や、足りなかった部分をまとめ、障害になった 部分はシステムの問題として考え、足りなかった部分は
「家の外の世界との交流」という視点で考えて、最も小さな 地域の中での私生活の実現を考えて見ましょう。



&材料があれば個人でできるか?'
1.土地 公有制が必要 ×
2.家 地域の材料で
3.畑 公有制が必要 耕す道具は ×
4.水道 水道管敷設
5.電気 低出力なら
6.熱源 かまど程度なら  ○
7.家具 大工道具 ×
8.仕事の道具 (業種による)
9.いちば
10.医療 ×
11.通信機器 ×

以上の点を考えると、なにがしかの地域にひとりで、自 分の力でできる範囲のことはすべて行って暮らすとしても、 最低限の色々な資材や、人的交流がなければ生活がなり たちません。その最低限の「職業」や「産業」の姿を明らか


にしたいと思います。これらは大規模である必要がありま せん。




●地域産業

①建築 ・・・・・・・・林業・木材加工業・製鉄所・ 鉄工所・石炭業・ガラス工 場・セメント製造業
②畑の道具は・・・・・・・・・・・・鍛造業・石炭業
③水道の資材は・・・・・・・・・・石油製品合成工場または
代替
④発電機材  ・・・・・・・・・・・・・家庭電機製造工場
照明器具等
⑤調理暖房器具は  ・・・・・・・鋳物工場・窯業・石油製品
製造工場
⑥日曜工具 ・・・・・鋳物業・鉄工所・工具製作

⑦仕事道具・・・・・・・・・・・ 精密機器工場・製鉄所・製紙
工場・石油製品製造工場
各種軽工場
⑧いちば・・・・・・・・・・・・・ 農漁業・牧畘・日曜生活雑
貨等
⑨医療・・・・・・・・・・・・・・ 医療教育・医療装置製造業
⑪通信機器・・・・・・・・・・・・ 精密機器工業



第五章
地域を設計する


自分の家ひとつ建てるのにも、地域そのものを考えなけ ればなりません。 しかし、前章で、町工場の規模で生活必需品はほとんど 調達可能だと感じられます。 近代化と、資本主義の拡大再生産を可能にしてきたの は、「鉄」と「化石燃料」ですから、このふたつを産業の主 役からとりのぞくことはすぐには難しいでしょう。ただし、拡 大再生産というあり方自体が問われている今、ひとつの 巨大プラントで様々な製品を作る重工業の機能や、その 形についても問いなおしていかなければなりません。


地域をとりもどす、ということは、インフラの解体と同様、 一元管理を分散する、ということにつきます。重工業をは じめとする巨大産業は、資本主義社会の中で競争力を増 すという目的でのみ集中を行ってきました。しかし規模を 小さくし、機能を分散することができないかどうか、根本的 に考えてみる必要があると私は思います。
「金物屋さん」や「鋳物やさん」などの地域産業が、いか に重要であるか、これらをそれぞれの町の必須機能として 考えることができるかどうか、これは大事な事だと思いま す。


ここまでで、自分の住んでいる「家」という狭い地域から 出発して、町から日本列島全体という「大きさ」で考えて、 以下のようなまちづくりのイメージができます。




1.農地付き、地元材で自作された家に住む
2.コミュニティの単位では、最低限の生態系を作る
鉄器を中心とした製造業と一次産業、エネルギーは
主に化石燃料など。
3.ガラス、セメント、石炭など、地域性の高い素材は少
し大きい地域レベルで産業化する。
4.常時稼動ではなく、オンデマンドで必要なときのみプ
ラントを立ち上げる、という発想も必要。
&これは競争原理に基づく生産ではなく、どちらかとい
うと計画的に経済をコントロールするやり方で社会主義
的といえます。したがって、生産物やコストに対するリス
クを市民が納得の上で進める必要がもちろんあります。
この背景については、七章の「待たない文明・待つ文
化・・・」をご参照下さい。'



以上に描写されている「地域」の姿は、今の東京・大阪 などの大都会から見ると非常にシンプルな、いわば農村 プラスアルファという町です。しかし立法・司法・行政など の機能を独立してもたせ、地域通貨もあってもいいし、ガ ラス瓶の再利用など資源再生の輪をもっていたりで、今政 府が言っている「地方分権」の理想の形に近いような気が します。 小さいところに豊かな機能、これが未来の個人文化都市 の理想であるように感じたりもします。



第六章
新しい「文化圏複合」としての地球
~文明デザイン~

日常に必要にものをあげつらって作り上げた、最もシン プルな地域は、前の章のような形になるでしょう。単純に 寝起きするという限りでは、物質的な面で人間の生活に 必要なものはあまり多くいらないと思います。 しかしここで問題にぶちあたるのです。 私達は、世界中で地域をまたがった大きな問題に色々と 直面しています。核兵器、戦争、貧困、温暖化。このような 全体的問題に対処するには、どうも個人の枠だけで論じ ていてはだめな気がします。 次の章では、個人の安全保障のために、世界の安全保 障を考える、つまり地球をまとめて考え、すべての人が尊 厳を失わずに生き延びるための世界のあり方を摸索して みようと思います。 その前に、私達がこれまで学校で教わってきた「文明」 のあり方そのものについて、少々考えてみたいと思います。
・・・・・・学校で習った文明・・・・・・・・・・・・ 黄河文明、インダス文明など、いわゆる四大文明を学校
でならいましたが、私達が普段使っている「文明」という言
葉と、教科書にのっている「文明」の概念にはかなり開き
があります。
例えば、私達は、環境に優しい文明、という言い方をしま
すが、文化人類学で言う「文明」という言葉は、政治的に


中央集権的な形の「都市国家」の成立と、金属器の使用、 文字の使用、といった、人間の集中と人工的構造物など に定義の根源をおいています。これに対して、大規模な集 中がない、非都市型社会に対して「文明化されていない」 という言い方をしてきました。
そういう意味で、環境に優しい文明というものはあり得 ない。 そうすると、この本で書いているような事は、「脱文明的」 と言えるかもしれません。なぜなら、都市を部分的にしろ 解体しよう、と言ったりしている訳ですから。


この本で、私は「国家」に代わって文化圏という言葉を使 いたいと思っていますが、文明、が地理的に人口集中・文 化集中を起した結果の限定された社会現象をさしてきた のであれば、もっと広い地域で見て、地球全体にこれだけ 増えた人類とその人工的環境すべてをまとめて各文化圏 の集合=新しい地球文明、という言い方もできるのではな いか、と思っています。勝手な定義ではありますが。



・「意識された社会形成」の必要性 文明、という言葉は、現在悪いイメージで捉えられていま す。国家と技術による支配の結果として環境問題や人口 問題などが発生してきたからです。 ここで問題なのは、歴史を通じて、現在ほど文明的発展 が地球全体に影響力を及ぼすという「意識」を、一人一人 が持たざるをえなかった時代はなかったのではないか、と いう事です。 歴史的な文明は、すべて大河川のほとりに発達しました。


これは生活に不可欠だったからで、次に近代文明も、産 業に必要な水を求めて河川のほとりに立地しました。文明 の発達段階で、常に考えられてきた事は、とりあえず当面 の生活や、産業活動がスムーズに行える、という事で、そ れはある意味では状況主義的というか、他の地域や、長 い目で見た将来の事はもとより考えていない、と極言する ことができるかも知れません。 これまでの文明は、そういう意味で、地球全体、環境や 一人一人の人間にとっては「無責任」であったともいえま す。 専門家の意見も聞いたうえで、私は敢えて、「意識的に 文明を発達させる、文明観そのものを変える」という事を 提案したいと思います。簡単に言うと、地球環境、という観 点から出発した、地球全体の「地球文明」というものを設 計する事が可能だと思うのです。今私達人類がしなけれ
ばならない事は、地域社会について何もかも意識して行う、 自分達で未来を設計する、という事ではないでしょうか。こ の地球文明という言葉は、四大文明の「文明」とは内容が 全く畩なります。 文明の目的が、「発展することそのもの」である時代は 終わり、各個人が責任を持って未来をデザインする時代 に来たと、私は思うのです。 この本のテーマはまさにそこにあります。人類は、地球 にこれまでしてきた事、これから行うことについて責任が あり、責任を負わなければならない、それを楽しく愉快に やる方法はないものか。それを考えたいのです。


・「脱文明」ですべてが解決するわけではない 私がこの本で書いているような事は、「脱文明」だと専門


家はいいます。しかし私は、国家を文化圏に置きかえるこ とは必要だと思いますが、文明観の、特に「人工的技術や その成果が集中する」という機能すべてを否定しようとは 思いません。 環境のことを考えると、現在よりもより狭い地域で、もっ と高度な技術の集中が必要な場合も起こり得るでしょう。 それは一言で脱文明的あり方、とは言えないように思いま す。


&コラム'都市解体 環境の問題について考える、ということは、現代では都市の問題に ついて考える、ということに直結します。 必要なものは何なのか、という私の考え方の根底には、やはり都市 のあり方というものに対する疑問が横たわっているという事です。 都市の問題は、情報や金や人の高度な集中ということで、これは小 さいところでは「いちば」のような小さい規模のようなものからすでにあ るわけですが、極度に集中してしまうと、大都市圏のように無秩序で、 自然環境を無視した町作りになり、治安の問題なども発生するように なってきます。 さらにその先にあるのは、都市の中でも極度に大きいものがセンタ
ー化してしまう中央集権制で、今「地方分権」といって国会でしきりに お題目をとなえているのはまさに都市の問題もっと簡単に言うと東京 のパンク状態であるわけです。東京ではゴミの問題ひとつとっても大 変です。もうゴミを埋めたてる場所、燃やす施設がないのです。分都、 とか遷都という発想も、必然があってでてきたものでしょう。 地方分権、というのは、都市の解体の問題を含んでいます。本来、 直接の生産にかかわっていないところに人や金が集中しており、政 治・商業的機能だけで統制力を発揮しているというのが日本の大都 市のあり方ですから、例えば税金を地方に還元する、ということを行 えば実際上都市機能は衰弱していくでしょう。 都市を、人間の住みやすい自然環境に近づけていくためには、機能 を分散し、人口密度を下げ、より自然環境に近いものとして再設計す る必要があります。これを私は都市の解体、と呼んでいます。


そのためには、例えば不況というのは非常にいい。東京も大阪もお金 がだんだん回らなくなれば、地方で生きていこう、産業を起そうという 人がどんどん増えて、都市の解体を一気に進めるチャンスが到来す ると思います。



第七章 全く新たな文化圏複合を作り出す 事はできるか


ここで梅棹さんの話にもどりますが、今の石油消費文明 に代わる文明とはどういう事を意味するのか私なりに考え て見ました。 例えばエネルギーの問題ですが、石油の代わりに核融 合技術を確立するという事は、理論的には可能かも知れ ません。しかし、何をしても必ず石油を使いますし、現在 の技術では、核汚染なしに核融合を実現する事はほとん ど不可能です。 電力を産業の基本に使おうと思えば、そのエネルギーを どうやって現場まで運ぶか、という問題がまずあり、送電 線が使えないような場所では、一旦「電池」のような化学 エネルギーの形などに変換して使わないといけません。そ うすると、このエネルギー利用は
「核エネルギー  ⃙ 熱エネルギー ⃙ 電気&媒体'ー
⃙化学エネルギー  ⃙ 電気&媒体'」という多くの変換過
程を経ることになり、その途中で損失が多く生まれます。
例えば人間が食物を摂り入れて仕事をするのに比較すれ
ば、著しく効率が悪いことは間違いありません。
効率が悪い、という事は、途中で不要な廃熱を発生して
しまうという事です。


自然界では運動エネルギーや化学エネルギーといった すべての「力」は、変換の過程ですこしづつ熱エネルギー になって逃げます。一旦自然界の中で拡散してしまった熱 エネルギーは、化学エネルギーやポテンシャルエネルギ
ーの形で利用できなくなります。ですから、熱エネルギー の形で逃げてしまうような利用の仕方は、極力避けるべき です。
・・・・・例えば/電気で熱を得るのはとても無駄・・・・・・・・・・・ 特に電気で伝わったエネルギーを熱源に変えるのは、大変無駄で
す。電力を熱に変えるには色々方法がありますが、現在利用されて
いる最も多い方法は導体抵抗を利用したやり方で、いわゆる「電熱
線」に電気を通して加熱するようなやり方です。どのような金属の線で
も、それに電気を流すと、その中に「電流に対する抵抗」があって、一
部の電力が熱に変わってしまいます。電熱線は、この原理を利用して
電力を熱に変える仕組みで、わざと電気を通りにくくした金属線を作り
ます。それに大きな電流を流すと、抵抗が大きいので大きな熱が発生
するという仕組みになっています。このようなやり方は、大変ロスの多
い方法です。
例えば、電力を一旦熱に変え、さらにその1部を光に変えている「裸
電球」と、熱にしないで直接電気の流れの1部を光に変えている「蛍
光灯」の明るさの違いを見てもらえば一目瞭然だと思います。熱を使
わないから、同じワット数でも蛍光灯は、効率がいいのです。
あと、電子レンジのように一旦電力を電波にかえてしまったり、IHレ
ンジのように電磁誘導という原理を利用した加熱器具を使用しますが、
エネルギーの変換の過程や、間に空気の層や鍋などの邪魔者が多く
なるほどロスが多いことを常に考えていただきたいと思います。

今、電力産業が流行させようとしているオール電化の家などは、ま さにこういう器具を多用します。調理や給湯など、すべての熱源として 電力を利用するという、とんでもなく無駄の多いシステムのため、私は 大変疑問です。環境問題について、「生態学」の研究者が始めてエコ


ロジー運動として問題提起を行い出した何十年も前、その本の中に は「電力を熱源として使わない」というのは、当たり前の理屈として書 かれていました。電気を熱源にするのは無駄というのは、少し考えれ ばわかることなのに、なぜ電力会社は今この時期にオール電化を推 進するのでしょうか。そのわけはおそらくこうです。
・・・・・電力会社はオール電化をなぜすすめるのか・・・・・・・・・・・・ 勿論、家庭でのエネルギー供給をすべて電気にすれば、電力会社が
コストを独占できますからおいしい話だというのもありますが、もうひと
つ原子力発電のシステム上の問題があります。日本の電力は、すで
に原子力発電に大きな依存を「させられて」いますが、原子力発電の
源である原子炉は、一旦動かすとすぐに停められないのです。停めて
しまうと、また動かすのにとても時間がかかります。というわけで、夜
間にも原発は発電を続けています。するとどうなるか。特に夜に電気
があまる。それでオール電化の家を作って、安い夜間電力を設定し、
その時間にお湯をわかそう、とこういう図式なわけですね。
私達は、電力会社の市場独占と、原発維持のために、子孫に膨大
な核のゴミを残しながら貢献しなければならないのでしょうか。そうい
う必要は全くないように思えます。

従って、設備生産や維持管理に石油を使う自然エネル ギーも「大規模」にするのなら選択肢としてありえません。
それよりは、石油に加えて太陽熱、水力などを、自然 に影響のない規模で使うべきでしょう。水車の発電などは 夢があっていいですね。
また一方で、エネルギーの変換効率を上げる技術の開 発をすすめたほうがいいのではないかと思います。そのよ うな新しい技術と、これまで歴史の中で捨て去られてきた
「効率はいいのに古いというだけで置きかえられた」もの を見なおすという、ふたつのやり方で、新しい文明を考え ることが必要ではないかと思います。




そしてさらに、第六章で書きましたように文明観そのもの を変えて行く、という事が大変重要な気がします。

・文明観そのものを変えて行く ステップ1
進歩史観を変える

文明という考え方は、世界を開発された地域と「未開」の 地に分けます。人間を、文明人と野蛮人、という差別的呼 称で分断してもきました。文明化された地域は進歩した地 域で、のこされた部分は遅れた地域である。そう呼んでき ました。


これは、人類は文明的手法をとることによって発展して いくことに価値があるという「発達史観」と呼ばれるもので、 その裏には、人類は進歩しつづけなければならないという 強迫観念めいたものがあります。 さらに不思議なのは、肝心の進歩という概念の中味につ いて、あまり議論がされることがなく、科学的発見であると か、生活が便利になる道具といった、単に新しいものが出 てきた場合に人類は進歩した、と私達は言いつづけてき たという点です。 常に、過去は乗り越えられなければならず、立ち止まっ ていてはいけない。このような価値観は本当に正しいので しょうか。現状維持が悪い、というのは、被害妄想の一種 であるという気がします。

・文明観を変えて行く/ステップ2


ほろんだ文明から学ぶ

四大文明が本当に賢明な人類の姿であったならば、そ れらは滅ぶことは無かったでしょう。インダス文明、エジプ ト文明、黄河文明。もし繁栄しつづけていれば、現在、世 界の経済的中心はインドやエジプトであっておかしくない。 しかしそうならなかったということは、それら文明の「進歩 した技術」が、決して人類の永続を保障しなかったばかり か、逆に働いたことさえあったという事実です。例えば文 明における重要な技術のひとつである灌漑を考えてみま す。
●文明をほろぼした人工的水利、過灌漑の悪い例 インドでは、20世紀に入って農薬などを使用した近代農業で、生産
革命を起しましたが、それに伴って大規模な灌漑事業を行いました。
するとその結果どういうことが起こったか。確かに始めの何年かは、
収穫が上がり、裕福になる農業生産者が出たそうです。ところが、灌
漑で地下水などを多量にくみ上げたために、地下の塩分までが地上
に上ってきてしまい、その内、地面が塩分で真っ白になってしまったと
いうのです。この報告はNHKの特集で放映されましたが、塩害の出
た真っ白な地面は、おいそれと簡単に元へ戻せる状態ではありませ
んでした。過去の文明においても、おそらくこれと同じような経緯で農
業ができなくなってしまったことが往々にして起こったのではないでし
ょうか。
行きすぎた灌漑による「塩害」は、同様な政策をとる国々例えば中
国の、特に黄河の流域などでも深刻な問題となっています。
大規模な人工集中とその富を確保するため、地下から水をくみ上げ、
川の進路を変更し、本来農作不能な場所を大規模に潤すために行っ
た灌漑技術は、てひどいしっぺがえしを食らう可能性のある技術だ、
というのが、学問の現場では一般化しつつあります。


進歩という概念は、調和という言葉に置きかえられるべ きでしょう。

・文明観を変えて行く/ステップ3
待たない文明-待つ「文化圏複合」へ

道具を基本とした文明を読み解く言葉のひとつとして、
「待たない、待てない心」を挙げたいと思います。モノを待
たずに手に入れる、時間をかけずに建築する、目的地に
最短で到達するため道路を作る。考えてみれば、これらは
すべて「楽をしよう」という心のあり方に発しているわけで、
機械の氾濫や人口集中を生む最大の要因はそういうとこ
ろにあります。
しかしその結果、どうなったか。モノを待たずに手に入れ
たり、時間をかけずに建築をするために膨大なエネルギ
ーを使った結果、資源は枯渇し、また道路や養殖場など
の自然を無視した過剰な設備が環境を破壊したのではな
いでしょうか。これまでの文明の「動機」は欲望と怠惰であ
って、バランス感覚がありませんでした。

バランス感覚うんぬん、を解決できるのは人間の文化し かありません。文明の利器である道具や機械自身には文 化はないからです。 ここで、私は人間の文化の中でも特に芸術に注目したい と思います。芸術は、一見無駄なことばかりでできていま す。楽器を演奏する、という行為を考えてみますと、楽器、 という道具を使い、演奏するという身体的技術も駆使して 音を作るという結果を出すわけですが、こういう芸術的行


為は、生活必需品を何か生産するわけでなく、逆にカロリ
ーを消費するだけです。さらに創造には、やたらと時間が
かかります。
ところが芸術は、歴史の中で文明の一部として、高く評
価されてきました。これは人間が、楽をしたいという気持ち
だけでなく、より精神的に豊かな生活を求めたいと願って
きたからだと思います。「見えるもの」に価値を置く文明は
急ぎ、「見えないもの」に価値を置く芸術はじっくり待つ。文
化全般について、よりよいものを得るために「待つ」という
ことが大切にされれば、文明の方向性、即ち同じ便利な
機械を作るにしても、その作り方と使い方に変化があらわ
れてくるのではないでしょうか。
同時に文明という言葉はやめ、文化圏、と定義します。
国境線は意味がありません。廃止します。
新しい「文化圏」は、ゆっくり動きます。
待つ文化圏は、これまでのように無条件なモノの開発や
利用を「考え」ます。一旦たちどまる世界と言って良いでし
ょう。発達史観がないので、新しい技術の開発もじっくり行
います。その上、その技術をあらゆる角度から検証し、人
類を幸福にするかどうかを文化の力によってコントロール
します。そのヒントは、中国南部の照葉樹林に住む少数民
族・トン族の人達が今尚伝承している、500年先の子孫
のために、木を切ったら同時に植林する、といった知恵に
始まり、世界の少数民族と呼ばれるようになってしまった
人達の伝統的な知恵の中にすでに遍在しています。



第八章
国民国家の終焉


以上のように「文化圏」という枠では、国民国家、という 考え方は終わります。 人間の生活圏を無視して線を引いて「ここからここまで 日本、それでもって日本人」というような行政圏を設定する というやり方は、無理があるんじゃないか。そう思います。 最近は「新しい教科書を作る会」といった保守的な考え方 を持つ人達が、国民国家という概念が先にある、という論 理で著作されたりしているようですが、縄文時代の日本に 現在のような国境がなかったように、&注1'  もともと地域 の人々の生活と国というシステムどちらが先にあるかとい うと生活が先にあります。個々の生活が共同体となり、国 家となり富や軍備の集中を生んで「文明」となってきた。こ の歴史の事実を考えずに、全国各地で過疎化が進みコミ ュニティが崩壊している今、一足飛びに「国」のことを論じ るのはナンセンスです。 これからは、国という考え方よりも「地域」⃙「文化圏」⃙
「文化圏複合」という考え方の時代だと思います。すばらし い風景とか特徴的な作物とか、暮らしやすい地形条件と か、そういうものの下で心をひとつにした人達の集まりと 文化。次ぎに述べる「個人文化」の集合体としての地域と 文化圏を考えて行く事が、重要な気がします。


ステップ1 最も小さな単位「個人文化」という考え方を創る


~個と全体の関係について~
●個人主義の行き詰まり 西洋近代文明がなしとげた成果のひとつとして個人主
義が挙げられるでしょう。人権、という発想も個人主義が
なければ出てこなかったのではないでしょうか。私は、西
洋人が近代化の過程でやっと手にしたこの権利について、
深く心服しています。
しかし、現代では、個人主義を標榜するあまり、まわりと
の関係を犠牲にしてでもエゴを通すのだ、という人達が正
当化されるようなこともあり、批判の対象になることもある
ようです。実際のところ、2000年頃から日本社会が急速
に右傾化しだしたのは、エゴイズムに対して危機感を持っ
た全体主義的な旧世代の人間特に戦中派の反動政策と
いう観測も可能かもしれません。
●国家主義に対抗する個人文化 一人一人の人間と、社会の関係性についても、今私達
は意識的にデザインをする必要があると思います。私が
提案したいのは、個人主義よりももう少し「自分以外の外
界との交流機能」を考えた「個人文化」という発想です。学
問的には、かなりルール違反ですが、
今世界で台頭しつつあるファシズム的傾向などに対抗
するにはこれぐらいの考え方を作り出さないとダメです。
これまで、個人がひとつの文化である、という発想は、何
かのアイデアの背後に、誰かが考えたかも知れませんが、
はっきりとその内容について思惟した人はなかったように


思います。 個人文化、とは一人一人が「国家」である、と考えるよう な発想です。個人の独立性、不可侵性、尊厳を表現する のに、これはエゴイズムを究極とする個人主義よりも、より 実感の伴った社会的な発想です。従来の文化人類学が 定義しているような文化の概念とは大きく畩なります。少 なくとも、社会組織を前提とし、ひとつの生活の様式が発 達・完成そしてそれを維持・伝授する側と継承する側など の存在を前提として「文化」は成立するので、個々の人間 の内部にそういった社会的かつ多元的な要素や主体と客 体が同一化したプロセスを認め設定するという事はかなり
「違反」な考え方といえるでしょう。
●個人と国家、ひいては宇宙を等価化する しかし、個人を格上げして、文化である、と考える利点は、
非常にたくさんあります。例えば、一人一人がそれぞれ独
自で、侵しがたい文化と歴史を持っている、という事を認
めることは、個人が国家と同等の意味をもつようになりま
す。
ひとつの文化圏&=これまでの国'が、地域法規に基づ
いて行う裁判でも簡単に「死刑」の裁定等はできません。

個と全体の関係については、小さな規模では家族の単 位から考えなければなりませんが、情愛で結ばれた家族 と畩なり、制度で管理される大きな地域での個人の重さを 考えなおすためには、個の文化が持つ意味をきっちりと定 義しておく必要があると思います。


それでは、具体的に個の文化、とは何なのか、ということ になりますが、具体的には国家と同様に、生活面に現れ る様々な機能で考えるとよいと思います。おおよそ、次の ようなものをあげても良いでしょう。
考えてみると、これらは 1 つの地域文化圏の中から個人 に植え付けられ受容されて、やがて変容して「個性」という 名で呼ばれてきたものです。個性は「個における所属文化 の現れ方」ですが、それを意識的に発達・分化させること で個人文化が可能になるのではないでしょうか。


・経済&生活文化' 田舎で一人で自給して暮らす人。組織で暮らす人。これ は  全く畩なる文化です。それぞれ体系を持っています。 組織で暮らす人は、組織の内部で個人の位置付けをす
ることによって生計を立てますから、自分以外の他人との 交渉を仕事にして生きていると言え、個人文化的に言うと
「商業文化」になるでしょう。
・政治&意思決定の方向性'
特にリスクマネジメント等に顕著にでる個人的な好み。
各人の根本的な態度のありさまは、千差万別だと思いま
す。
・言語
世界には5000種以上の言語があると言われています。
国の数はせいぜい200程度なのに。これを見ただけでも、
人間の数だけ文化がある、という私の意見もあながち遠
いことではないと思ってもらえるのではないでしょうか。
例えば中国は現在、漢民族以外の住民は「少数民族」と
呼んでおり、公式に55の民族を認めていますけれども、
この少数民族のなかにもまた色々な部族や家族社会があ


って、言葉の数ももっとたくさんある。実際上それを全て
「中国語の 1 部」と呼ぶのは不当でもあり、また不適当で
す。
言葉に関しては、日本は比較的均質化されており、&か
つての軍国主義のせいで'全国でまあまあ中央標準語が
通じますが、ひとつの国で端まで標準化されているという
のは畩常だし、またそれがもとで方言を失ってしまったとし
たら大変な貧困です。
・倫理体系&または宗教'
日本人は無宗教、という人が多いですが、これはウソで、
全体主義、という宗教を持っています。民主制の世の中に
何をいうか、といわれるかも知れませんが、親方日の丸で、
何かあったらすぐ国になんとかしてもらおう、という市民の
態度が、見あたらないでしょうか。
何かあったらすぐに行政や国に頼ろうとする。犯罪は地
域の責任でなく警察の取り締まりに頼ろうとする。個人文
化の概念にとって最も大きな障害になるだろうと私が考え
ているのが、この日本人の「心に秘めた」価値観です。こう
いう人間性は、権力にとって非常に操作しやすい社会を
生みます。自分の価値観をまわりの顔色で決めるからで
す。
でも人間は、本来もっと自由なはず。
色々な価値観があっていいのです。それは責任を伴う
ので体力がいりますが、他人まかせにして管理国家にい
いようにされる恐怖を考えればどちらを選ばなくてはなら
ないかは自明の理です。
・安全保障&外交'
アメリカでは銃が個人防御の基本です。国に頼ろうとい
うような人は少ない。しかし個人文化の安全保障は兵器


ではなく、「教育」で行うべきです。 他人、即ち他の文化に対して敬意をはらうことのできる、 相互扶助的な社会の構築と、力を神聖視しない価値観の 共有が重要です。


ステップ2 家庭と家族文化がある


家族社会が崩壊して久しい、とよくいいますが、そんな 事はありません。社会の基本はひとつひとつの家庭です し、それぞれが独自の文化とその共同体での常識&価値 観'を持ってきたのです。 いい例が昔の嫁入りで、姑の嫁いびりといった形でよくド ラマにされたりしたものですが、お茶の入れ方ひとつで大 喧嘩になるような「家」対「家」の対立が往々にしてありま す。これをそれぞれの家庭が代表している個性的な文化 の衝突であると言わなくてなんなのでしょう。 この点について、国家主義的な人達は「日本には日本 人固有の共通的な価値観がある」というような言い方をよ くしますが、個人が文化であるという側面がある以上、家 庭には各家庭の常識と文化があります。これまでの国家 は、家庭や地域の常識すなわち価値観やものさしを、更 に普遍的な「良識」という価値観で外交的に統合してきた に過ぎないのです。


ステップ3 地域文化がある


各家庭の集合として地域があります。 現在は、昔ほどの同族社会的な絆は薄れてきましたか ら、地方でも色々な地域から流入してきた人が共存してい る社会になっており、より一層、この考え方で地域を考え ていく必要があります。国、といえども、大きな地域に対す る呼び名のひとつに過ぎません。


注1 厳密に言うと「日本国」そのものがなかった。 網野善彦氏の著作 例えば「日本の歴史」第0巻  平凡社
等に詳しく説明されています。

第九章 世界憲法


●個人の安全保障のための全体の保障

私が重要だと考えているのは、個人の生活が幸福に営 めることです。別な表現で言うと「個人の安全保障」と言う 事です。 日本には、素晴らしい平和憲法があり、個人の安全保 障はある程度、この中で確保されていると思います。&現 在かなり危機的状況にある。' しかし、例えばの話ですが自国の利益にとって気に入ら ないことがあると、すぐに軍事力で圧力をかけたがるよう なアメリカのような国が出てくると、おちおち個人文化など といっていられません。 つまり、日本のようにすぐれた憲法を持った地域でさえ、


その人権状況は世界の情勢によって左右されてしまうの です。これは大変に困ったことです。個人の幸福のために は、世界全体に変わってもらわなければなりません。その ひとつとして提案したいのが、世界憲法です。

●現在の安全保障の装置としての国連の限界

今、国家間の話合いの場としては第二次大戦の戦勝国 がもととなって発足した国連があります。環境問題、平和 問題についてももっとも大きな関与力を持っていますし、 地域紛争に対しては、常設でない軍隊まで編成できる権 力を持っていることは、注目に値するといえるでしょう。 また、地域間紛争については、国際法というものもあり、 ジュネーブ条約、ハーグ条約といったさまざまな国際間で の取り決めも、国家間のルールを規定しています。
&ただし国際法は、多国間の過去の取り決めや慣例を寄 せ集めたもので、通常私達が考えているような「憲法の精 神に基づいた立法」のようなものではありません。そういう 意味で、ここでいうような世界憲法とは大きく性格を畩に するものです。'


現在の国連には限界があります。資本主義的な世界の 中にあって、先進国といわれる国の発言力が大きく、特に 大国と言われる国の関与で、国連自身の権威をまげられ るような状況も見受けられるように思います。

●アメリカに牛耳られる国連
2003年初頭に、イラクの大量破壊兵器査察をめぐって、国連とアメ
リカがもめました。アメリカが、イラクに対し、攻撃のための明快な国


連の決議をまたずに攻撃をしかける、という発言をしたのです。イラク には、大量破壊兵器があるという疑いで、査察をすることになってい ましたが、兵器の資料を隠したりしていたのが原因で、国連は決議1
441項で「査察に協力しないと重大な結果を招く」という含みのある決 定を下していました。 この決議には戦争をしてもよい、とは一言も書いていないのですが、 イラクに戦争をしかけたいアメリカそしてそれを支持する日本の小泉 純一郎自民党政権は、その表現を‘戦争可能’と曲解し、アメリカとイ ギリス軍がイラクに侵畠し、日本は戦後処理という名目で総額5兆円 に上る資金提供を約束しました。


恥ずべきイラク戦争では、世界で1500万人を超える人 によって反戦デモが起こりましたが、このような現状を見 れば、国連は大国、特にアメリカを中心とした欧米に好き なようにされている、という印象を持つ人が出てきても無 理はないでしょう。 私達に必要なのは、さまざまな価値観が交錯することに よって、逆にあらたな紛争を呼んでしまうような「交渉」の 現状を収拾できるシステムではないでしょうか。 そのような意味でも、「世界憲法」のようなものを作るし かないように私には思えます。これは世界のすべての地 域をまたぐ、人類普遍の原則みたいなもので、シンプルな ことをいくつか決める、いってみれば全世界の憲法です。 もしこういうものを作るとしたら、中身はどうなるのでしょ う。私の考えたバージョンです。



●世界憲法は人類の普遍原則

第一原則 「生命原則」 人間やすべての生命をいたずらに害する すべての方策を廃棄する。 そのために、すべての人間は正しい情報 を獲得し自らの将来を決定する権利を 持つ。
・生存権の担保と自由の保障

第二原則 「環境原則」 環境に悪影響を与える、または結果が現 在の技術で完全に現状復帰可能である と証明または予測できないいかなる方 策も廃棄する。


第三原則 「不保持原則」 基本的に最低単位である家族、そして 最大でも郡規模の地域によってコントロ
ールできないものを開発せず、所有しな い。
&システム的な面' 文化芸術を除く、長期的な大規模集中/蓄 積現象
・権力  ・都市  ・貨幣経済
&物質面'
もともと自然界にないもののうち、人類
に貢献しないもの


・原子力  ・遺伝子操作技術  ・一部の化学 物質
・兵器  ・巨大な装置など

第四原則 「友好と独立に関する原則」 個人・地域間の対話を疎外・分断する いかなる政治的試みも排除する。 ただし、地域の独自性としての流入制 限等排他的政策については、生命原 則に反しない限り認める。


第五原則 「地域原則」 多様な地域の存在を認め、尊重する。


第六原則 「共生原則」 各地域は、交流を基盤にした共生をめざす。


世界の各地域は、その地域立法を世界憲法に準拠して 作りましょう、という協定をむすんだらどうでしょう。ただし 漏れがないことが前提です。これは義務と責任を負う、負 荷のかかる仕事ですから、負荷のかからない地域が発生 してくることは公平性を欠き、実現に支障をきたします。そ れに、生命原則などは、物理的防衛に対する足枷にもな りますから、安全保障上も未適用・脱退等の地域はゆるさ れません。そういう意味で、非常に難しい法ではあります。


さて、具体的に世界憲法によって世界が動きはじめると、 どこがどう変わるのでしょうか。ちょっと考えてみましょう。


「生命原則」 すべての生命をいたずらに害さない。という論理は、今 の法律では不可能な野生生物のペット化防止や、森林破 壊防止でさえコントロールする根拠になります。 一方「いたずらに害さない」という言葉により、人間の最 低限の活動に必要な天然資源活用は確保されますし、計 画的な資源の活用が促進されます。 生物相の保存と、無目的な遺伝子操作技術の開発等に 対する倫理規定の根拠にもなる、大きな理念です。


「環境原則」 さらにこの項目が、動植物以外の自然界の無生物のバ ランスについても規定します。 最近流行の「海洋深層水」。海の底から水をくみあげて、 化粧品  だの食品だのに利用宣伝のかしましいことです が、水は無限だし使い放題などと考えていたらえらいこと です。 深海の水は酸素を溶かし込んで、何千年という大きな周 期で大洋を循環しています。これらをいたずらにくみ上げ ることで、海の中のイオンのバランスがくずれてしまうので す。その結果、何が起こるのかは想像もつかない。コンピ ュータのシミュレーションでは本質的に予測不可能な自然 破壊は一刻も早くやめなければなりません。 環境原則は、商業主義の名の元に無制限に行われる鉱 物資源・  海洋資源等の浪費をストップする根拠を与えま す。

「不保持原則」
‘適正規模の文化圏と複合’の実現のための根拠となる


原則です。 大規模な集中の解体は、社会の公正さを実現するため に必要な条件です。ここ100年間で爆発的にすすんだ、 畩常な浪費のスピードに歯止めをかける意味でも、まず 地域に適当な規模を持たせることが大事でしょう。 続いて不要なモノを持たない。これはまさに核兵器やク ローン人間などの、人間がコントロールする資格のない技 術を放棄する強力な法的根拠となります。一畤困るのは、 現在ではアメリカなどの大国でしょう。日本も入るかもしれ ません。 しかし、稀少資源、エネルギー問題ひとつをとっても、人 類にはもはや「要らないものを管理している」ような無駄な 時間は全く残されていません。 世界憲法は絵に描いたモチではなく、こうしなければ確 実に滅ぶという期限を切られた現実に即した発想です。


「友好と独立に関する原則」 テロは問題外ですが、今の北朝鮮のように対話の姿勢 を拒んでしまうという地域は、戦争の火種となってしまいま す。 これは旧来の国民国家という枠組みで、国家間のいざこ ざについて問題化しているわけですが、個人文化の存在 のもと、地域間のネットワークが色々なレベルで行われる ような社会が来ます。 友好の根本は「個人交流」を出発点とし、より大きな地域 への交流へと発展してゆく中で世界平和がはじめて実現 されます。 個人による情報の発信・コミュニケーションを眼目とした インターネットは、すでにその原初的な役割を果たしてい


ます。もともとはコンピュータ開発者の利益を目的としてい ながら、この脱文明的な装置は、友好原則を心ならずも行 動に移しているわけです。 文化、芸術のように、畩なる精神性や世界観をもつ地域 を結びつけるものは、世界憲法の精神によく合致し、現在 よりも平和の道具として社会で高いステータスを得ること になるでしょう。 人と人、地域と地域を結ぶという発想が、世界の主流、 政治の主流にならなければ、未来はありません。


「地域原則」 この原則で、北海道や沖縄、中国、アメリカをはじめとす る地域 の中で多数派に同化を余儀なくされてきた世界 中の少数民族と呼ばれる人々は理論的に独立できます。 それでなくても、軍国主義というイデオロギーがなくなる わけですから、大きな地域で大きな武器等の道具を持つ 必要がなくなり、地域と地域は敬意と信頼関係でむすば れます。


「共生原則&相互扶助の原則'」 これまでの歴史における、力の強いもの、すなわち文
明度の高い者が世界の富を独占する、という論理は完 全に破綻しました。それにしがみついているのは、アメ リカを中心とする先進国と、あわてて工業化を急ぐ中国 のような国です。
しかし、お互いに特産品を持ち、相互に豊かにな る、という社会の仕組みを今よりもっと「意識的に」
「継続性と信念を持って」行えばどうなるでしょう。 多様な地域が多様な生産を手掛けていれば、侵畠は


侵畠者自身の豊かな生活を阻むものとなります。相手 を亡き者にしようというような不心得者はあらわれなくな るでしょう。 相互扶助の原則は、軍事力に代わる具体的な安全保 障の手法として用いられることとなるでしょう。



第十章 新しい地球創造へのステップ


新しい社会を作る、という事と、新しい地球にする、とい うのは別です。地球環境問題などに対処するのに、今の 汚染された地球を棄てて、ぱっと新しいものに取り代える、 というのはできませんから、今の状態から、少しずつ変え て行くしかありません。


それでは新しい文化圏の集まりを実現するために、今の 社会からどのようにステップアップしていけばよいのでしょ うか。 今のままでは、人類は機械文明やお金が全てという流 れに押し流されてしまいますから、

●何かを取り止めにして
●何かを始めなければ

なりません。しかし全てを一時に行うことは不可能です。 段階的に行うことになるでしょう。環境や人間にとってまし な社会が来るのが早いか、それとも滅亡か、それは時間


と努力の勝負にかかっていると言えそうです。

・・・地球創造&人類社会再編'へのステップ・・・・
1. 地球と地域史についての全体的情報の一刻も早
い共有
2.世界憲法による教育
3.地域での問題抽出と対策への取り組み
4.ネットワーク化
5.個人文化を作る
6.産業構造と地域の再編

考えられる手順としては、以上のようになるでしょうか。

●地球創造へのステップ①  全体情報の共有

【問題提起・・・・・・現実的問題を皆で認識する】 地球・人類史情報の集積と共有は、民主的プロセスを実 行するために必ず必要です。いま人類は、地球のどの部 分がどのような問題をかかえていて、それが他の部分に どう関係しているのか、という的確な情報を持っていませ ん。NHKの報道などで砂漠化や汚染に対する各大学の 取り組みが報道されるように、一部の学術機関にはそうい うものが蓄積されているのかも知れませんが、そういう研 究機関や軍事産業やマスコミに情報が独占されていたり、 いわんや権力の道具として情報が使われているような現 状では、環境問題等について真剣に論じる準備ができて いるとは到底言えません。


資源問題、平和問題、どれをとっても地域や地球全体を 見渡せる情報と、歴史的に地域がどのような変遷をたどっ たかというプロセスについての知識が重要なのです。 全ての人が情報を得て、初めて問題の抽出ができます し、地域の歴史的変遷から将来を割り出していくことは、 指針のひとつになります。


[地域史の重要性] 地域の歴史を私が重視する理由として、ひとつ引用して みたいと思います。


・・・・・・モンゴルは単に「草原の国」ではない・・・・・・ モンゴルといえば日本人は草原の国と思っていますが、ここで地層 に閉じ込められた花粉の調査を行った、国際日本文化研究センター の安田喜憲氏のリポートによると、内モンゴル東部から遼寧省にかけ ては、かつて草原ではなく森林であった、という結果がでています。マ ツの仲間や、落葉ナラ属、満州グルミといった樹木がしげっていた、と いうことですが、氏はこの森林が消えた原因として人間の活動を挙げ ています。 モンゴルは、国中草原である、という先入観を日本人は持っていま すが、実際は森林地域と砂漠地域、草原の地域と色々に相がありま す。その中で、かって森林であった地域を知らずに、砂漠化を追認し てしまうような歴史教育が行われるようなことがもしあったら、環境観 を誤らせることになると私は思います。 正しい環境像は、歴史の学習なくして成り立ちません。

【対策・・・・・情報共有のためにどうするか】

1.大学・研究機関の解放 日本だけに限った話ではないと思いますが、多くの大
学・研究機関は「何のための学術か」という目的意識より


も、とりあえず運営のできる研究を優先しよう、という体制 になっています。
その結果、政府や特定の企業の企画部・下請けになっ てしまうことが多いようです。このような構造は、研究を金 銭的に維持していくという構造の中では致し方ないのかも 知れませんが、それだけでは長期的に見ないとコストがペ イしないものは無視されたり、人類にとって困る技術など に金をかけたり、といったことが起こりかねません。  要す るに研究における「文化」がないので、「御用学者」のよう な人達が出てくるわけですね。 倫理がないために、特権意識のようなものに縛られてい る人も沢山います。大学研究者と一般人が同じ意識で発 言しようとしたりすると、無視される、といった事もままある ようです。同業間での権威の見せつけ合いなども熾烈な ものがあり、大学で、まじめに人類の将来を考えようとした り、人間性を実現するための道具として学問を理解しよう とするまっとうな研究者達にとっても、これは迷惑な話です。 このような状況では、世界の危機をアカデミズムが解決 してくれると望むことは不可能です。関係者は、「何のため の学問か」という原点に帰り、全人類の公益と福利の観点 から、社会に成果を還元しなければなりません。 大学・研究機関、特に現在国民の税金で運営されてい る機関は一般社会に解放されるべきであり、特に資本主 義体制のもとでは管理され、または市場原理で外部にで てこない最新の学術情報について公開する義務を負うべ きでしょう。


2.ジャーナリズムの自由化

ジャーナリズム&報道'はコントロールされています。どの ような情報も、誰かの意図が少なからず入っている、とい う事です。 誰かにとって都合のいい情報だけが常に流され、公正 な立場の報道はめったにされることがありません。これは 当然な話で、報道のためのコストを誰かが負担している以 上、その立場を脅かすような情報は流せないわけです。ア メリカで最近出爮された、軍国主義批判の本、ジョエル・ア ンドレアス著「戦争中毒」などには、国家や軍事企業によ る生々しい報道管理の検証と記述があります。 この現状に疑問を感じ、中立な立場で報道をしなおそう という良心のある人は、自分でそのコストを負担せねばな らず、情報がなかなか広まりません。まともなジャーナリズ ムの成立が困難になっている原因は、ひとつにやはりお 金がからんでいるようです。 個人ではいわゆるフリージャーナリストとよばれる人達 がいますが、最も問題の核心に近づける可能性のあるこ の人達が、日本では「組織の権威がない」ために最も生活 に苦労する、というはめになり、私は疑問を感じざるを得 ません。 ジャーナリズムは自由化するべきであり、情報そのもの に対する価値判断を発信者がするのではなく、全ての立 場から発信される情報が受け手に等しく伝わることが必 要です。


&コラム'「組織」に信用はあるか 企業の大部分を占める株式会社の責任体制は「有限」です。例えば


つぶれた場合、基本的には「すみませんでした」で済ませられる構造 になっています。日本のいい例が 2003 年の6月に事実上破綻して、 国から2兆円に及ぶ税金の補助を受けることになったりそな銀行。こ この経営陣は、自分の給料で2兆円の責任をとったわけではありませ ん。 また、特に日本の組織では、普段の業務から責任の所在が不明瞭 になるよう、稟議制や縦割りシステムという便利な仕組みが発達して いて、例えば国に何らかの補償を求める、などという事態になったとき はもう大変。責任逃れのために色々な窓口をたらい回しにされるとい う現実が待っています。 これまでの社会を見る限りでは、組織というのは「誰も責任をとらな いための社会のかくれみの」である、といってもいいのではないかと思 います。また、集団、というのは個人と畩なった原理を持っていて、一 人ではできないような事も、個人の存在が希薄になってしまう中では できるという集団心理のようなものが働きますから、戦争のようなもの でもできてしまう。それもひとりひとりの責任回避、という背景があるよ うに感じます。

ところが、現在の世界では、個人よりもこんな組織のほうが社会的 に信用があるのです。「なになに会社の誰それ」「国の何々機関」とい っただけで、権威と信用があります。さらに不思議な事に、それも「責 任の所在がより不明確な」大企業になればなるほど信用が高いので す。例えば個人企業で折衝したら10回営業に行かなければ決まらな いような話が、会社組織では初対面ですぐ決まってしまったりする。こ れは個人企業として仕事をしている私が普段身体で感じていることで すから間違いありません。

現在の日本の体制では、本当に信用できるのは真摯な個人企業で す。個人企業は自分自身の利益のために、無限責任を負って勝負を しています。このような立場からも、「個人文化」の存在と意義を考え る時期に来ていると思います。 フリージャーナリストは、個人企業であり、自分自身の情報に対して 信用がなくなったら一巻の終りです。政治や企業の思惑によって情報 がまげられかねないマスコミの報道に対し、フリージャーナリスト特に 社会的課題について取り組んでいる、実績もあるジャーナリストに対


しては、企業よりも高い評価が与えられてしかるべきだと思います。
3.個人文化圏~地域文化圏の電子メディアの解放 インターネットを中心とする電子メディア網は、重工業に
頼らない機器の製造方法、部品の高耐久化、すぐに修理
できる構造などを早急に開発し、極力環境汚染の少ない
生産にシフトするべきです。
電子メディアは、情報がすばやく公開できる・多くの個人
文化を結合できるといった点で、地域文化圏の成立に大
きな役割を果たせます。
勿論、この公開性や結合性を、中央集中的な操作で悪
用されないような、安全システムの開発と同時の進行が
最も望まれます。
●地球創造へのステップ②  世界憲法による教育 新しい社会は、仕組みや法律の問題ではありません。い
くら法律や制度をつくったところで、地域住民がそれに価
値をおかなければ何の意味もない。逆にいうと、ひとりひ
とりが意識改革を行えば、世界が一気に変わります。
このことは、個人の意識を変えることが、世界をよくする
最も重要な方法であることを示唆しています。だから教育
がすべての事に優先して大事なのです。

[教育が不充分だと脅しに屈することが多い]
1.電力会社の担当者が原子力発電を正当化するために
よく言う言い方として「原子力発電を停めると停電します
よ」というのがあります。しかし、ここで地域住民が「構いま


せん」と答えたらどうなるでしょう。原子力発電はなくても いいということになります。
2.化粧品会社が、「30才過ぎたらこれを使わないとお肌 がかさかさに」と宣伝します。これは脅しです。化粧品がど れだけ有害かを学んでいれば、脅しに屈する必要はあり ません。
ちなみに、ほとんどの化粧品会社が「白い肌をつくる」 などと効能をうたっているやり方は、れっきとした違法行為、 薬事法違反です。なんで逮捕されないのかな。
【問題提起・・・・人間の能力を回復する】 新しい世界に生きるためには、学習能力を研ぎ澄ます
必要があります。このことは、新しい教育は、これまで人
間が放置してきた色々な学習や忘れ去られた技術の再習
得を行うといったプロセスを意味します。
資源問題等については、高度に技術的な知識を一般市
民が持ったほうがいいでしょうし、それによって仕事もでき
ます。また、サバイバル能力を鍛えることも、汚染された
環境で生きていくために必要なことでしょう。
・倫理を考える
どれぐらい豊かになれるか、ではなく、自分にとってどう
しても必要なものはどれだけあるのか、という点から生活
を見なおすべきでしょう。人によって、色々と違う生活用具
が必要ですが、みなが横並びで同じものを所有していな
ければならないというマーケットの論理は既に破綻してい
ます。

【対策・・・・そのためにどうするか】




1.家庭教育の復権 倫理は、基本的に子どもに一畤近い親が教えるべきも のです。学校の教師は、基本的に他人。子どもと生産活 動の共有をしていないからです。子どもとともに生産活動 に励む親、というのが最も教育の効果のある道だと思い ます。ですが、そのためには親が職住分離していないこと が重要です。 新文化圏で学校に代わる存在となる塾は、基本的に情 報集積と啓発の場として家庭と役割分担したほうがいい でしょう。


2.小人数・塾形式、読み書き重視の初等教育 地域文化圏で行われる教育は、塾形式での読み書きを 主体とした教育で十分です。
コミュニティセンターで電子ネットワークを開放し活用す るのも効果的です。 初等教育で最も重要なことは、数学や外国語・体育・芸 術などではなく、すべての学問の基礎となる読み書きの能 力を教えることです。この能力が十分できていれば、子ど もはネットワークなどを活用し、自分で色々な学習をする ことができます。 教師が行うべきことは、情報を活用する知恵やさまざまな 実用的課題を個別に与えることで、もちろん子どもたちに は「何のために学問をするのか」という目的意識も明確に させる努力をしなければなりません。



●地球創造へのステップ③  地域の問題抽出と
対策への取り組み

【問題提起・・・・現状で環境汚染、人間性への抑圧など、 地域性の高いテーマを分析し対策を考えます。】


【対策・・・・・・そのためにどうするか】 地域の問題は、個人文化圏から考えるべきです。個人 が暮らしにくい場所で地域が成立するわけがないので、 個人として不都合のある部分をピックアップし、地域の問 題として考えていくという手法をとったらどうでしょうか。


例えば、第六章の生活用水の問題ですが、河川に合成 洗剤や糞尿を流されるとたちどころに飲料水として使用で きなくなります。現在の日本の河川は、多かれ少なかれ、 何らかの廃棄物で汚染されています。これは各自が自前 で水道を引く、という発想になればすぐに直面する問題の ひとつですが、産業にしても自動車にしても、個人として 影響を被る、という発想での問題提起が求められます。

●地球創造へのステップ④  ネットワーク化

【問題提起・・・・・それぞれの地域の問題点を共有し、地 域をまたぐものなどについて協議と対策の機会を作り出し ます。】


【対策・・・・・そのためにどうするか】 地域間で問題を共有するのは、これまで専門家や行政


にゆだねられてきましたが、基本的に各々の個人文化圏 によって問題の核心が意識されていないと進みません。 小地域での学習の機会を増やし、課題に関する啓発の場 を利用して認識を広めます。電子ネットワークは有効なメ ディアとして期待できます。

●地球創造へのステップ⑤  個人文化を作る

【問題提起・・・・・個人文化を作る】

1.最低限必要なものをリストアップする 要るものから発想する、自分の小さな生態系、という発 想は、歴史的に見て侵畠行為に対する防衛手段のひとつ になりえると思います。 誰しも、他人から自分の人生について指図されたり、人の いうままに動かされたりするのはイヤですね。しかし他の 文化圏から、&一見友好的な態度でも'そういう動かされ 方をするとしたらそれは内政干渉であり、侵畠に結びつく ものとも考えられます。 先進大国の間でまかりとおっている第三世界への近代 化のおしつけは、経済の領域で行われている干渉と考え ることもできるでしょう。近代化の過程で、よく使われてき た手法は例えば次のようなものです。

・・・・・・・・外部資源に依存する危険の例・・・・・・・・・・・・
・まず相手先の文化を否定します。
「こんなものを食べていたら近代化できませんよ」
と言って不安感をあおる
・自分の文化を売り込みます


「これはとても身体によく、また安いです」
・相手先の文化と自国文化を入れ替えて、それなしで成立し
なくなるようにします。
「もうあなたがたは、苦労して食料を作らなくてもいいの
です。」
・相手先を文化でコントロールします。
「こちらの言い分が通らないなら経済制裁&禁輸'しますよ」
などといって圧力をかけます。

このように、外部からもたらされるものに無批判に依存 するという事は、リスクのあることであり、それが比率的に 大きくなると、武力によらず支配される、ということがありえ ます。 日本では、それが大変顕著で、食料にしろ石油にしろ、 ほとんど外部依存していますから、文化圏としてたいへん 大きなリスクを抱えています。 例えば、日本人の食べている小麦・大豆のほとんどは、 アメリカ・カナダからの輸入です。日本人にとって重要な豆 腐・味噌・醤油・納豆・うどん・蕎麦・パンといった食料が、 実はほとんど日本で生産されていないのです、。 アメリカが、もし経済制裁と言って小麦をださなくなったら どうなるのでしょう。戦争なんかしなくても、降参するしかな いのではないでしょうか。 個人の生活でも一緒で、結局大きなシステム・外部から もたらされる価値観に依存すればするほど、転覆するとき に一気に、しかも皆そろって転覆しますのでとても危険で す。


2.必要ないものを廃止する 私達の個人の生活は、今、日本という大きなシステムの


中で管理されています。私達が自分自身で考え、選び、 生活していると思っている思想とか趣味つまり文化の中 味は、案外大手のメーカーの広告そのものだったり、役所 の発想そのものだったりするのです。管理社会という大き なカタログの中で、言われた通りに選ばされる生活はやめ ましょう。 テレビで宣伝をうっているようなものは、ほとんどメーカ
ーの自己満足で、なくてもいいものばかりです。どうでもい いようなものだから宣伝を打って無理やり買わせるのです。 高級な化粧品&原価は数十円'省エネルギーに逆らう大型 車&日本の狭い一般道路でなぜ300馬力もの出力が必要 なのか理解に苦しむ'これらはほとんど必要ないものです。 モノと同じで、趣味や思想にまで、本当の自分にとって 必要ないものがいかに多くあふれているか、それを見つ け出して、ありのままの自分の身体性をとりもどすことなし に、個人文化の完成はありえません。


3.不足しているものを開発する 企業の作った消費社会に踊らされ、目的観のない官僚 の作り上げた政府の描く夢に踊らされ、豊かな自分を満 喫している気分になっていた私達。それを取り去ったら、 本当の自分自身はまるでなかった、なんていう変なことに もなるかも知れません。じっくりと、不足していた自分自身 の身体性を取り戻す作業を始めればいいのです。 これは楽しいことで、自分がやりたいことだったのは本 当は他者との交流で、不足していたものは語学だった、と いうような気づきは、大きな財産となるような気がします。

【対策・・・・・そのためにどうするか】




個人文化の実現の基本は、「自分と向き合うこと」です。 これは大変勇気のいることです。 でも、ゆっくりやればいいと思います。 自分自身がどういう人間になりたいか、という気持ちさえ 失わなければ、時間を作って自分と向き合うことは比較的 容易でしょう。

●地球創造へのステップ⑥  産業構造の再編

・産業構造の再編
1.最低限必要なもののリストアップ
2.必要ないものの廃止
3.不足しているものの開発
4.当面不用と判断された技術の封印
と記録
・地域の再編

これらは、次の章で詳しく述べることにしましょう。



第十一章 世界憲法にもとづくひとつのモデル


個人文化の集合体である大小の地域の中では、さまざ まな地域文化が花開きます。しかしこれまでの歴史と畩な り、これらの地域文化圏は世界憲法の中で、大きく結ばれ ており、だれがどの地域に移住しても不安がなく、しかも


地域性がこれまでよりも大事にされていることが特色とな ります。そういうひとつのモデルを考えてみたいと思いま す。

【世界憲法の下で世界はこうなる】

●宗教のモデル
多様性・共生・ネットワーク  を柱に

宗教は、もともと人間の幸福を願って存在するものです。 そのような意味では、世界憲法そのものが、目的として同 じものを持っているといえるかも知れません。 しかし、世界憲法と宗教が畩なる点は、宗教が地域発生 的であるという歴史上、それぞれの地域の特性を反映し てしまう限界があるのに対し、世界憲法は全ての地域で 実践されてきた各々の宗教的営為の結果を踏まえた、人 類共通の、しかも切迫した課題意識をもとに作られるとい う点です。 既存の宗教に地域性に基づく限界がある、というのは歴 史上の国家紛争の多くが宗教の名をかたって行われた事 実を見れば明らかです。このような愚を繰り返さぬために も、世界を覆う倫理規範が必要です。


&多様性' 新文化圏では、宗教は各地域に根ざした独自性を保証 されています。しかし、生命原則、環境原則、友好の原則 に反するような教義・戒律は無効とされ、新しく再提案され ます。すべての宗教の名における政治紛争は回避される


ことになるでしょう。

&共生' 世界憲法の元では、宗教間の対話、そしてお互いの相 互学習によって宗教に磨きをかける、といったプロセスが 勧められます。それぞれが自分のよいところをアピールす るだけでなく、謙虚に学び合う、という視点が重要です。


&ネットワーク' 新しい世界では、他地域間宗教会議が装置として設け られます。これは、ややもすればなおざりにされがちな基 本原則などの確認を提起的に行い、相互扶助を行うとい った「場」になります。

●イデオロギーのモデル

世界憲法の中には、個人文化などのイデオロギーにつ いてはうたっていません。したがって、地域を結ぶ原理とし てイデオロギーをどのように使うか、は自由です。ただし、 生命原則の内容から言って全体主義や軍国主義といった イデオロギーには登場する余地がないはずです。 他方、今の社会では民主主義が一畤いい、という事にな っていますが、民主主義の本来の訳語は「民主体制」で、 単なるシステムです。新しいシステムを色々と工夫するこ とが必要でしょう。少なくとも、代議員を立てて、議会制決 定システムで政策を出す、というのは議員の質が高けれ ば機能しますが、ビジョンのない議員が将来を考えても状 況主義で終わるだけです。それなら、バカ殿&との'が行う


絶対君主制と、大して変わらない。 明治以来、日本の政治を実際上動かしてきたのが政治 家でなく官僚であったという事から考えてもわかるように、 地域の将来を一人一人の意識に基づいて決定するという のは本当に実現の難しい話なのです。このあたりの経緯 は、オランダ人ジャーナリストのK.V.ウォルフレンが「日 本・権力構造の謎」というレポートで明らかにしています。


&コラム'資本主義を装置に 資本主義は、貨幣を使うことで欲望を数字で表現する事のできる便 利な装置の一種ですが、金をめぐるトラブルが絶えないのは、皆がそ れを単なる装置である、という認識以上のものを求めるせいではない か、と思います。 単なる装置には、文化はありません。&言葉を変えれば価値観でしょ うか'私が色々な分野の人としゃべっていてよく話題に上るのは、「資 本の原理と文化の原理というのは、全く別のものですね」という話です。 これはレベルの違う社会機能を、ごっちゃに論じているように思いま す。人類の幸福のため資本をどう機能させるか、というのがあれば資 本主義は文化になると思いますが、単なる装置になってしまっている 現在の拝金主義的資本主義にはもともと、価値判断=文化というも のは存在しません。 要するに、装置に過ぎない資本主義に「ものや人が持っている価値 を判断する基準」などを期待するほうがおかしいと私は思うのです。 同様に、科学も、それ自体には文化はありません。それは単なる方 法です。科学/技術文明、というものは可能かも知れませんが、科学/ 技術文化、というものが現在あるのかどうか、については私は信じら れません。科学者は、技術そのものに対して価値判断する立場にな いからです。ですから、遺伝子組替えとか、核開発といった、人類にと ってどのような影響があるのかわからない技術でも平気でどんどん作 ってしまうのでしょう。もし科学技術に文化があるならば、すべての技 術は、人間にとって幸福をもたらすかどうかという規範によってコント ロールされるでしょう。しかし現実にはそうはなっていない。コントロー ルしているのは政治です。即ち、現代の科学は多くの場合「政治」や


「経済」であり、社会の尊敬を受けるに値しないものが多いように思い ます。例えば2003年の夏には、東京電力の原子力発電所がすべて 停止する、という畩常事態がおきました。これで、首都圏が大停電す るといって大変な騒ぎになったのですが、その原因はと言えば原子力 発電所の経営者が、故障や不具合のデータを隠したり捏造していた、 というものでした。 原子力資料情報室という、日本で始めて原子力の安全性について 組織的に取り組んできた団体の代表で核化学者であった高木仁三郎 の言葉をそのまま借りるなら、「データを捏造する、などという現場に 既に“科学”は無い」といっています。データそのものがむちゃくちゃな らば、それを元に理論を組み立てるという科学的手法が成り立たない からです。 遺伝子組替えには、私は文化はないと思っていますが、原子力の現 場には、既に「科学」そのものがなかったのです!

以上のような視点から言うと、この本で書いていることは、「装置の 文化化」であるとも言えるでしょう。

・資本主義を文化化する 労働の成果を評価する、というような場面では、貨幣経済は便利で す。ですが、すべてを貨幣で表現しよう、というやり方には無理があり ます。&⃙拝金主義' この本の最初で述べた、土地の解放のように、地域の合意のもとで すぐさまにでも貨幣中心の価値観を捨て去る事は可能である事を想 像してみて下さい。 私はここに、資本主義を文化化するヒントがあると思います。 一言で言えば、「金で買えないものがある事を認識し、意図的にそう いう領域を作る」という事です。貨幣価値で表現できないものは、沢山 あります。そういう価値の体系をデザインする。その体系の社会的位 置付けを確立してゆく、それが、貨幣経済をより人間的に文化化して ゆく上で大事なことでしょう。

●言語のモデル


多様性・共生を中心として。

&多様性' 言語は、現在よりも多様化されます。というよりも、厳密 に言うと少数者の権利の保護に重点をおくため、文化に おける帝国主義を阻止し、豊かな地域性が称揚されるこ とになるのです。文化における帝国主義、とは、水道やガ スと同様なやり方で、言葉や生活スタイルを集中管理し、 為政者の思うままに市民を操作しようとする歴史的な試 みの数々を指しています。一例をあげますと、日本政府に よる日本の方言の破壊があります。

&例'日本政府による、戦前の沖縄での方言破壊

「標準語励行の唄」 南の島に時代の潮  古い習慣さらりと棄てて 君も私もこの町も みんな楽しい標準語

これは神谷一義氏によって復元された、沖縄県で1934年頃  実際 に歌われていた行進曲の歌詞です。資料をそのまま引用してみましょ う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和11年9月、沖縄県校長会で、「標準語を一層普及徹底せしむ る具体的法案」について審議がなされた。また、県社会課が募集した 標準語普及標語は、小学生の「いつもはきはき標準語」「沖縄を明る く伸ばす標準語」などが当選。八重山でも学校から標準語励行運動 が始まる。そのトップを切ったのは石垣小学校。標準語指導として
1.校の内外を問わず、児童同士は必ず使用すること
2.感嘆詞であっても方言は使わざること
3.故意ではなく不用意の問いに発する方言でも許さざること
4.知らざるがために方言を使用することも許さざること


を決めた。さらには標準語行進曲を制定、学区内を「御世 は昭和だ興亜の風だ ぼくらは明るい日本の子ども 今日もニコニコ朗らかに   言葉はつらつ標準語」とうたって 大行進した。
&沖縄県無形文化財  大工哲弘氏の歌の資料より抜粋'
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは戦前の日本における、生々しい文化破壊の一例 です。沖縄における「方言」矯正は、学校における「方言札 制度」なども設けて徹底されました。これは、授業中に児 童が方言をしゃべると、首から札を下げさせ、みせしめに 立たせる、といった措置です。


言葉の尊厳を保つ、という事は、民族文化の基層部分を 守る、ということですから、共生と多様化の実現に向けて、 最も重要な部分の1つと言えるでしょう。 歴史上、多くの侵畠はどのように行われてきたか、を考 えてみると、まず相手国のインフラを破壊すると同時に、 言葉や習慣などの文化を破壊する、ということが有効な手 段として採られます。文化を破壊された民族は、アイデン ティティーを失ってしまうからです。沖縄や北海道など各地 で日本政府が行ってきたことは、日本人による先住民文 化への侵畠で、まさに帝国主義は身近から、という実例で す。


軍国日本は、沖縄に対するのと同様なこと即ち日本語 標準語を、朝鮮半島・中国大陸・インドシナなどで強制し 広くアジアから反感を買いました。しかしそれは、日本だ けに限った話ではなく、ヨーロッパ人もアメリカ人も、そして 他のアジア人同士ですら、侵畠を考えた者達全てが行っ


てきたことでもあるのです。

&共生' 言語がグローバライゼーションという、ひとつの流れから 独立し、その固有性と権利を主張するためには、文化圏 の間の対話をよりスムースにするために言語プログラム を開発する必要があると思います。相互の文化をより深く 研究することができ、平和への途となり、また、新しい雇用 ともなるでしょう。

●教育のモデル

・世界憲法/地域性に基づく教育

20世紀までの間は、教育は多かれ少なかれ本人自身 を出発点としていない、何か別の目的のために利用され てきた、という感があります。それはあるときは軍国主義 であったり、科学礼賛であったり地域の利益誘導であった りするのでした。 しかし教育は、幸福な人格と社会の平和を生み出すた めに行われるべきもので、無目的・無倫理なものはその名 に値しません。 世界憲法のもとでの教育は、生命原則と環境原則を大 きく根底に意識したものでなければならないでしょう。です から、新しい教育のもとでは、軍国主義や全体主義などの イデオロギーにはそもそも出畤がありません。

・教育者の養成


世界憲法にもとづく教育者は、社会の高い尊敬を受ける こととなります。そのため、志願者は、常に世界的視野で の学習を自分自身怠ることができません。 教育の水準は上がり、地域に関する市民の責任意識、 社会への参画は大きな向上を迎えることとなります。


&世界憲法のもとでの理念統一は地域性と相容れるか' 世界憲法の精神と地域の独自性、例えば歴史や文化が 相容れないという場合も出て来るでしょう。これは、世界憲 法の中で、自分達の歴史としてその意味を改めて子供た ちに教えるいい機会でしょう。なぜ自分達の祖先は、その ような考え方・歴史を持つに至ったか。そういう再構築の 過程を通して、現在のグローバライゼーションを打ち破る、 新たな地域愛が生まれることを願います。

●政治のモデル

・多様性 世界憲法のもとで、政治は地理的規模と風土に見合っ た政治を勧められます。個人文化の存在を認められます から、政治の最小単位が現在の国家レベルと同じ尊厳を 持ちます。これは画期的なことです。


・共生 多様性を可能にするため、共通理解の方法を現在私達 は多く持っているとはあまり考えられません。というのは、 畩なる文化間でのシステム理解を促進する「翻訳装置」の ようなものを文化のレベルにまで上がって行う装置&比較


文化論のような'が未発達だからです。これは翻訳家の鳥 飼美智子さんが著書で詳しく説明されています。 例えばこれまでは、ある集団に理解できない行動があっ た場合に、畩文化のものさしで判断するということが主流 となって行われてきた経緯があります。これは、国連のよ うな、民主と民族自決を重んじる場においてすらそうです。


欧米や先進国といった基準を決めて、それに合わせて 理解しあったつもりになっている、というのは、政治として 低いレベルです。真の共生のための、翻訳システムの構 築は、人類の英知を結集して行うべきです。

●安全保障のモデル

・根本体制
「文化間翻訳言語」「超地域的相互扶助システム」
世界憲法を根本とした教育により、軍事的手段は放棄
する。
文化の違いによる話し合いのズレを近づける、比較文化
的な手法をもっと発展させた翻訳のシステムを新たに摸
索する。
「特産品を交換する」ことによってお互いに豊かになる積
極的相互扶助システムを安全保障の思想的根本に。

・危機管理 教育でカバーしてもなおかつ悪意をもって意図的に地域 の安全を脅かそうとするくわだてに対しては、個人・地域・ 政治会議のレベルでそれぞれ対応する。


1.個人のトラブル・・・地域で解決
2.小さい地域のトラブル・・・大きい地域の連合で
解決
3.世界のトラブル・・・世界ネットワーク&国連など'
で解決

安全保障という発想は、本来ないにこしたことはありま せん。 すべてのテロリズムがそうであるように、貧困、差別と偏 見、愛情・道徳観のない教育などによって憎しみや悲しみ といった感情が生まれますから、まず、個人の尊厳がたも たれるような社会の構造・雰囲気を作ることが重要でしょ う。 しかし人間の心の中には、エゴを増幅したいという欲求 も常にあります。これらすべてを外部的にコントロールす ることはむずかしいと思います。
社会の安全の問題は、最終的に個人の人格がどれだけ 完成されるか、にかかっていますから、大多数の日本人 の現状に反し、宗教のもたらした歴史上の知恵の数々が 果たす役割は大きくなるでしょう。世界憲法と宗教は、常 にひとりひとりが新に幸福になる方法を模索せねばなりま せん。たとえば仏教では、いかる事や愚かである事、貪欲 であることをもっとも戒めています。この三つが、人間をダ メにする大きな要素であることを鋭く指摘したわけですが、 このような歴史上の蓄積を新しい教育にどんどん反映し なければなりません。 そのような真剣な教育と愛に満ちた社会の中から、邪な 心は個人に利益をもたらさない、という知恵を形作ってい かなければなりません。




●科学と技術のモデル

・生命/環境原則のもとでコントロールされる。
・技術開発に伴う社会全体への影響予測&アセスメン
ト'環境コスト計算、全体計画なしに行わない。
・新しい「利用哲学」の形成
第三原則&不保持'の延長として、
「人間が作ったものについて、技術・成果品ともに
内容が理解できない場合は消費しない」という原則
を作る。地域間で徹底する。
新しいプラスティックを例にとると、原料・製法・環
境負荷など、すべてについて知識が流布し、自己
責任においてその処理ができない場合は、購入が
できない。
この原則は、教育を創造的にし、かつ不要な資源浪
費を阻止する。

●人口問題のモデル

・閉鎖系として地域管理を行う。各家庭の食料自給率や 生産力に応じて、家族を構成する各個人がその地域 で子供を産んで成人になるまで責任がとれるか、につ いて討議し、家族構成を自主的に決定する。 化石燃料消費がかかわってくる場合は、多地域間 政治会議に諮る。

●地域文化圏の行政のモデル




・国境は廃止し、行政単位を自由化。目的に応じ、随 時サービスを考える。
・インフラ、人口問題、環境問題の多くは、最終的 に都市問題である。都市の未来像をどうするか、とい うことが地域文化行政の根本である。
・「移動と独立の自由」の原則を作る コミュニティの最小単位は家族であり、個人の移動の 保証に加え、この単位から独立行政単位を構成するこ とも可能とする。
⃙一戸の家庭でひとつの文化圏、としてみなすこと が可能

●産業のモデル

世界憲法のもとで、生命原則、環境原則、不保持拡散 原則という大きな三つの原則下におかれることとなる産業 界、特に先進国と呼ばれる地域の産業界は、もっとも大き な変化を余儀なくされるでしょう。それは、非効率化・分散 化・閉鎖系化で、なおかつ生産体制を柔軟に保っていくと 言う、大きな課題と取り組む必要があります。 これらは同時に、大きな雇用をもたらします。

1.非効率化・分散化
「一元的・大量・安定供給」・・・は棄てざるを得ない
でしょう。
「多元的・適量・適時生産」が主流となります。
2.毒物法の制定


これは地域間ネットワークで管理します。 毒物である、と認定されたものは毒物税を徴収され、 行政サービスの財源になります。ただし、基本的に 目的税とし、環境維持に使用されます。
・毒物パトロール設置

A一次産業


・地域で総量管理システム採用
・主力生産地域と生産消費地域の区別
「第一地域」
・基本的に地域消費を目的とします。
閉鎖系で生態系への負担が高くならない基準を、自然
環境にこれ以上手を加えないという原則から逆算して
組みたてます。
・市場原理によって生産規模を決定するのではなく、地
域に見合った生産規模により市場を決定します。
「第二地域」
・他地域流通を目的とする生産を中心とした区画で、
単一業種も可能ですが、周囲に緩衝帯をおいたり、事
業所を定期的に移動するなど、自然環境の保全に基
本を置きます。

○農業 農業は生活の基本です。個人宅で自給に近づく努力を するのも勿論ですし、第二地域である生産地では専門家 と手をとりあった、コメなど主要穀物の栽培を重視しなけ ればなりません。そのためには、都市機能がやみくもに拡


張せぬよう、地域で話し合ってデザインをしなければなり ません。 都市は、商業地と工業地が適度に農地の間に分散した 形として配置されるべきでしょう。この中で、農地の比率を 高めるよう、地域法でコントロールします。


○林業 市場原理の中で、最も危機に瀕しているのが林業です。 日本では、かって林業には一定のルールがあり、里山の 森林と植林のタテ分けや、再生産のための維持管理がよ く考慮されていました。それを崩壊させたのは森林再生を 考えない商業主義的な熱帯雨林破壊で、持続可能な地 域林業の再生は、熱帯雨林のこれ以上の破壊防止につ ながります。


○水産業 水産業は、基本的に養殖に依存しないほうがいいでしょ う。養殖は、自然環境にダメージを与えますし、飼料で育 てる魚の味は不自然で危険なものとなります。地域での 消費量を算定し、循環するサイクルの中で漁獲をコントロ
ールするべきです。 基本的に漁村では魚を食べ、農村では穀類中心の食生 活をするべきであり、また大型魚類の捕獲比率は大きく下 げるべきでしょう。 なぜならば、大型の動物は食物連鎖の上部にあり、もと もとの自然界における分布数が少ない上に、食品としても 全体を同時に摂取しにくく、ひずんだ食文化となりやすい からです。 いい例がまぐろで、3メートルを越えるような大きすぎる


魚であるために、一度に全体を食べる、ということが難しく、 筋肉部分それも特にトロなどの部分を珍重するという歪ん だ食文化を生んでいます。 食べるならば全体を味わう文化を発達させるべきであり、 保存文化も高度に発達させなければなりません。何でも 鮮度がよければいいというものではないことも重要です。


○畘産業 畘産業も同様に、小型動物の食文化開発に力を注ぐべ きです。肉1kgを生産するのに10kgの飼料を消費する牛 などは、日本などでは主要な食肉としてはふさわしくあり ません。 食物連鎖の上部に位置する動物は、食用として多量に 飼うべきではないのです。 環境原則から言えば、雑食性で成長が早く、人間の体 に安全であるという証明が歴史的にされている小動物を、 環境負荷をできるだけ低くして飼育すべきでしょう。 例えばにわとり、あひる、うずらなど小型鳥類、うさぎな
ど。 にわとりは代謝が早く3ケ月で成鳥し、効率のいい蛋白源 となります。ただし現在のような、薬漬けのケージ飼育で はもちろんダメです。羊は、牛ほど効率が悪くありません が、放牧面積が鳥類よりも大きくなり、すべての地域で主 用動物にするには適当ではないと思われます。

Bニ次産業


ニ次産業は、資源産業については新規開発をストップし


たほうがいいでしょう。これまでに開発したものを人力中 心で再利用するのが理想といえます。


○鉱業 窯業・陶業・電子産業等向けに、人類が採掘してきた鉱 物の量といったら天文学的数字でしょう。問題は、これら のうち再利用の輪にはいっていないものが多いということ です。 例えば、コンピュータに使われている希土類元素と呼ば れるような金属は、微量でかつ色々な混合物の形になっ ているため、現在の時点では回収分離がコストがかかり すぎます。 また、基本的に、全ての再利用には資源を新たに消費し ます。牛乳瓶のように、人力で再利用できるものは比較的 ましですが、それでも良質な資源である水や石油を消費し ます。最も良いのは消費総量を減らす事です。


○工業 工業は、現在でも再利用できるものはしています。しか
し再利用には資源を消費しますし、さらに効率を上げるシ ステムが早急に必要です。できないならばその製品は使 用を廃止するべきです。
新規工業のあり方は、製造中の環境負荷の評価、製造 後の排気・回収・利用のコスト計算ぬきでは認めない方向 にし、全体計画のない操業は見合わせたほうがいいでし ょう。


○加工業 鉱物資源関係


基本的に新規採掘はストップします。 農林水産牧畘関係 流通を見なおすことによる、保存等の新しいシステムが 必要です。これは雇用を生む分野です。基本的にこの分 野は、地域消費性が高いため、化石燃料を使用しない加 工のあり方を開発し、地域産業として分散させることが重 要です。


○製造業 これも、新規の資源開発は最低に抑えたほうが良いでし ょう。


○建設業 建設は、いかなる場合も破壊を伴うものであるという意 識改革を教育のレベルで行わなければなりません。 建設に関わるすべてのプロセスは、一から出直しです。
広範に地域を破壊する一様な建設行為は、すべて取り 止め、小さな計画に変更します。大型の建設機械は、特 殊な用途以外はお蔵入りにします。 インフラにおける建設行為の内、河川管理等については 都市建設の概念そのものについて再考する必要がありま す。
・河川の近くに都市をつくる
・一元管理されたインフラを作る
といった集中都市のあり方が間違っているのです。

建築資材の調達も、もちろん新規のものは行わず、金属 部品、プラスティック製品については新しい「資源回収調 達業」を経由して調達します。しかし、エネルギーを消費す


る事を忘れてはなりません。

生物資源については、地域的な生態系の中で活用しま す。


○水道業 都市機能の分散とともに、地域浄水システムに移行しま す。
水道機能全体の見なおしが必要です。例えば、今日本 では水洗便所に「飲める水」上水を使用していますが、こ れは大変な無駄といえるでしょう。水洗便所の一括処理 やその方法についても考える時期に来ていると思います が、飲用・炊事用水と入浴用以外の水は雨水を利用でき るシステムを作るなど、多様化が必要です、


・雨水 化学物質による汚染や、核実験や原子力施設等の放射 性物質による汚染は、思いのほか広がっています。 雨水は、昔のように安全な水ではなくなってしまいました ので、そのままでの飲用は不可能です。ただし、水洗便所 等の利用には向いているでしょう。これは配管ひとつの問 題なのに、いままでなかったことが不思議です。行政シス テムの怠慢としかいいようがありません。水道水すら、す でに飲用に不適当という時代になってきているわけです から、雨水や水源の汚染を取り除く技術開発は早急に求 められるものです。


・地下水 地下水で最近報道されるようになってきたのは、産業廃


棄物の汚染に加えて、2 次大戦の化学兵器による汚染で す。
2003年10月にマスコミをにぎわしたのは、東京の近辺 で地下水を利用している地域に高濃度の砒素が混入して、 子供の発育不全や身体の痛みなどといった告発があった 例です。 被害地のあたりでは、大戦中に化学兵器を埋設処理し たらしいのですが、戦争責任をうやむやにしたい軍部の思 惑で処理に関する資料が残っておらず、結局どこにどの ような兵器がどの程度うまっているのか全くわからない状 況だということでした。
「どこで致命的な毒物に汚染されるかわからない」 これが、現在の地下水の状況です。個人でこのような汚 染に対処するのは不可能です。住む前に、飲料水の調査 を行うしかないのですが、水資源の安全性を解析できる 地域業務や、個人用の装置などを開発することは、新しい 産業を生むことにつながるかも知れません。


・特定河川 日本の川は、かつて清らかなものの代名詞でしたが、今 はごみためと同義語です。廃棄物を棄てないというのは、 教育の問題ですが、工場排水や河口堰など、地域や行政 が組織的に行う破壊は、個人文化を結集して現状復帰に 持って行くべきでしょう。


○電力産業 原子力は即刻中止し、地域発電システムに移行。 火力発電と水力発電の組み合わせ、従来の方式はそれ ほど問題がありません。


しかし原子力発電には、安全について多くの不安があり ます。
まず、各原子力発電所で報告されている冷却パイプの 破断・亀裂など、システム自体がもろいことと、運転中・運 転後に発生する核のゴミの捨て場所が地球上にないとい うことです。 原子力のゴミは、一般のゴミと訳が違います。原子力発 電所で使用する燃料は、大部分が燃料として使えない燃 えないウラン238で、その中の少量の「燃える」ウラン23
5を核分裂反応させて熱エネルギーを採りだし、それで発 電するわけですが、反応終了後はそのなかに原子爆弾の 材料であるプルトニウムを含んだ核廃棄物が大量に生ま れます。ウラン238は放射線を出しながら最後には鉛に なって安定しますが、半分の質量になるまでに 45 億年か かります。2003年3月に行われたアメリカのイラク攻撃で 使用された、「劣化ウラン弾」の材料のひとつが、この核の ゴミです。戦争にかこつけて、相手の国に自国の核のゴミ を「捨ててくる」。これぐらい、核のゴミは嫌われているわけ です。
45 億年もの間、放射線がもれないように廃棄物を管理 しつづけるのは、人間には不可能です。そもそも、45億年 後には、太陽そのものの寿命が尽き、大爆発を起して多く の惑星がのみこまれるので、地球は存在しなくなります。 つまり、地球が物理的に寿命を追えるまで、私達は核の ゴミをもちつづけなければならない、という事なのです。
・地熱
・風力
・水力
・火力


・潮汐 これら自然の物理的エネルギーを利用する方法は、表 面上の廃棄物は少ないですが、石油を消費しますので、 結局石油文明の延長にしか過ぎません。火力発電が最も 効率的で、おすすめです。 風にしろ水にしろ、大規模な活用は、自然界のバランス を崩し、思いもかけない事故や環境悪化を招きます。
・バイオマス 木材くずや食品カスなど、有機物に蓄積された太陽エネ ルギーを利用するバイオマスは、小さな規模ならよいでし ょうが、これも石油を消費します。


○熱源産業 都市機能の分散に伴い、地域熱源対策システムに移行。
・薪炭
・石炭
・天然ガス
・太陽光
・石油
・バイオマス

【代替エネルギーに関する疑問】 電力・ガスそして車については、いつも代替エネルギー という課題について盛んなプロパガンダが行われていま すが、これには疑問があります。なぜかと言うと、代替エ ネルギーは本当に石油の代わりなのか、という事です。 代替というからには、そのエネルギーは少なくともそのエ ネルギー自身で自身を生み出さなければなりません。10
0$自前でエネルギーを生んで初めて、代替と呼べるでし


ょう。 簡単に言えば、車に石油を使う変わりに燃料電池を使う と環境に優しい、といいますが、「燃料電池の力で燃料電 池を製造している」でしょうか、そんなことはありません。 燃料電池の生産にはやはり石油を使っています。この生 産過程での温暖化への影響はアセスメントされていない。 おかしな論理です。 原子力に関して言えば、ウラン鉱石の採掘に使う石油か ら始まって発電設備の建設、維持管理まで全てを見ると、 石油1を使って電力1しか生んでおらず、これは代替どこ ろか火力発電よりもっと悪い。おまけに廃棄物の問題があ ります。 これらは、基本的には、牛乳パックやペットボトルのリサ イクルと一緒で、ごまかしのある論理ですから注意しなけ ればなりません。 考えられることは、「より少なく化石燃料を消費する代替 設備」であり、プロジェクト全体でどれほどの節約効果にな るのか、という数字を市民にきっちり提出できなければな りません。

C.三次産業


○商業 電子社会の到来で、商業の現場は実際の財貨の取引を 無視した架空の数字遊びになる危険性をはらんでいます。 商業は、その根本である物品取引の現場から遊離しない よう、流通拠点の分散化と多元的情報の共有が大きな課 題となるでしょう。


ここで言う「多元的情報の共有」とは、社会の機能を分 散することによって発生するであろう各地域情報の孤立化 をさけるために、社会全体の情報を、これまでよりもさらに 地域に還元するためのネットワークシステムの構築を意 味します。この手法はいわゆる「文明的」な手法で、環境 に直接ダメージを与えない情報・文化などの集積は地域 にとって重要な事だと判断されます。


○運輸業 運輸については、解体せず大量集中の枠の中で残せる ものがあるかも知れません。鉄道輸送についてはエネル ギー効率が高く、自動車運送よりも燃料消費が少ないた め、有望なものの 1 つです。 大型自動車特にトラックによる輸送は、日本では、昭和
50年代よりうなぎ上りに増え、現在では鉄道にとってかわ った感があります。しかし騒音、排気ガス、タイヤカスによ る環境汚染・事故・化石燃料消費といった点で、解体の対 象となるべき領域でしょう。 実際のところ、大型トラックで運ばれているものが、それ ほど危急を要するものかどうか、といった点も重要でしょう。
2003 年二月の新聞に、ちょうどトラック輸送の話がでてお り、問題を感じましたので、紹介します。 内容は、高速道路での大型トラックの制限速度を時速9
0kmにおさえよう、という話で、そのためにトラックにリミッ ターという装置をつけることを義務化しようという関係機関 の報告です。 トラック協会は、これに対し、制限速度90kmでは、魚な どの生鮮食品の鮮度が著しく落ちることとなり、商売にな らなくなるので困る、というコメントをしています。


輸送業で使用されるトラックといえば、10トンを越すよう な超大型のものばかりです。こういう大型の車が、時速9
0kmで走るというのは、それだけで一般車にとって脅威だ と思いますが、実際のところそれ以上のスピードで走って いるようです。 自動車のスピードは、少し増すたびに等比級数的に燃 料消費が大きくなります。なぜかというと、車を加速するの に必要なエネルギーは、速度の二乗に比例するからで、 例えば倍の速度で走ろうと思えば、理論的には加速する ときの燃料は4倍必要になります。もちろん実際にはきっ ちりそういうことにはなりませんが。 公害を撒き散らして維持しなければならない魚の鮮度、 それを消費する都市の大市場とは一体何なのでしょうか。


○サービス業 サービス業の本質は、基本的に一対一の人間関係に集 約されると思います。ただし、勿論共産主義社会には業種 としての「サービス」という概念がないように、サービス業と いう発想自体はイデオロギーの制約を受けています。例 えば資本主義社会では、サービスは「プロフェッショナリズ ムの切り売り」的側面を多分に持っており、人間関係だけ では許されないところがある。これは現代の日本では特に 顕著に見られる傾向です。 新しい地域社会では、イデオロギー的な枠にしばられな い、多様なサービス業の発展を考えなければならないと 思います。


○情報産業 世界憲法の中で、情報と市民の関わりは非常に大きな


位置を占めています。マスコミによって一元的に情報が管 理されると、市民の判断はしばしばできないか、誤った方 向へ誘導されることも可能性として大いにあります。この ような状況を脱し、的確な情報をスピーディーに伝え、人 類が明るい将来を築けるようにする責務を情報産業は負 っていますが、最も自由・独立が保証されるべき分野です。 大きな課題として、産業の低効率化ととともに、現在のよ うな集中管理は解体されることになると思います。そこで、 重要な情報をいかに多くの人に伝え、地域間をネットワー クしていくかと言う事が挙げられるでしょう。 しかしこれは、逆にいえば小規模事業者にとって雇用確 保の場として機能することもできるはずです。

○通信業
「情報を制するものが世界を制する」といわれるのは、今
日に至るまで、常識のように言われてきました。したがっ
て、すべての情報網はスピードと大量集積特に国家を中
心とした中央集権的な管理をひとつの理想としてきたわけ
ですが、新しい地域社会ではこれは困ります。
これからは、既存の基盤のうち全体情報の開放をもっと
強化した、個人文化中心・相互通行的な通信システムへ
と移行すべきでしょう。ただし、これは即、すべての人間が
現在のように携帯電話を持つ、というような事は意味しま
せん。携帯電話のような道具は、ひとつまちがえると監視
国家への安易な道をひらきますし、私の考えでは村にひ
とつ情報センターがある程度でよいと思います。

D.四次産業




○芸術 芸術は、産業ではありませんでした。 しかし世界憲法の中では、教育とともに、世界平和に貢献 する産業にできると思います。


最後に 長時間お付き合い戴いてありがとうございました。 この本が、皆さんが何気なく過ごしている日常に何らかの 変化をもたらすきっかけとなれば幸いです。 尚、この本は多くの分野にまたがった問題を扱っていま すが、「エントロピー」「衆愚政治」といった難解な用語は極 力避け、主として高校生対象に書きました。


2004 年 三木俊治

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