2012年4月1日日曜日

英BBCドキュメンタリー「メルトダウンの内側」日本語字幕版


2012年03月25日 院長の独り言さんのブログから

英BBCドキュメンタリー「メルトダウンの内側」日本語字幕版

 東京茶とら猫さんからの転載です。
【必見!拡散希望!】英BBCドキュメンタリー「メルトダウンの内側」日本語字幕版作成しました









日本語書き下しは、みんな楽しくHappyがいい から

2011年、津波が日本を荒らしつくした7日後、消防隊員たちは危機的被害を受けた福島第一原発に向かった。原子炉3基がメルトダウンを起こしていた。彼らの任務は放射能に汚染された瓦礫の中を進み、致死的放射能を放つ核燃料に水をかけること。失敗したら日本の広大な地域で人が住めなくなると政府は恐れた。
このドキュメンタリーは、災害の最前線で撮影された貴重な映像と、原子炉を救うために戦った男たちとともにのちに我々が撮影した映像で構成されている。
実際に現場にいた者たちが語る福島メルトダウンの内側である。
これは放射能によって生活が一変した人々の物語であり……
人命を危険にさらしてでもさらなる大惨事を回避しようとした一国の首相の物語でもある。

「メルトダウンの内側」
2011年3月11日
1日目
日本 東北地方福島第一原子力発電所


作業員A
比較的仕事がスムーズに進んでいた日でした。
それまで1週間、2週間と大きな地震が続いていて、
我々はそのうち、非常に大きな地震が来るんじゃないかというような冗談を言っていました。
そしてその冗談は現実になってしまいました。


気象カメラ撮影
福島第一原発を揺さぶった地震は、記録にある限り日本で過去最大のものだった
原発を運転する東京電力は、作業員が人前で話をするのを禁じてきた
しかし事故から1年、自らの体験を語る者たちが現れている


壁に付けられていたパイプがずれて、
そしてそれを固定しているものから外れているのを見ました。

タカハシ:
ずーっと地震が長くなって、どんどん大きくなっていきますから
それでちょっと普通じゃないなと私は思いました。

ムラカミユキオ:
膝を突いたような状態で手すりにつかまっていた状態。
で、停電が始まって、


日本の発電所には耐震設計がなされており、原子炉は数秒で自動停止した。
しかし核燃料棒は高放射能であるため、停止したあとも猛烈な熱を生みだす。
そこで、燃料棒が溶けないように冷却する装置に電気を送るため、非常用発電機が作動した。
かつて福島第一原発で原子炉点検の仕事をしていたサトウ・タカシは、その日の詳細な記録を残している。


タカハシ:
私はプラントは心配していませんでした。
原子力は安全だと思っていましたから。
発電所は結果的にはそうですね、安全ではなかったですね。
pm3時15分

午後3時15分
原発近くの海で働く福島の漁師たちは、次に来るものを知っていた


ここの浜は地震が来ると津波が来ると昔から言われているものですから、港にある自分の船に行って、沖に船を出しにいきました。

ウチダ・ヨシオは自分の船を救うため、過去数百年で最大の津波めがけて猛スピードで向かっていった。津波の波頭が砕ける前に波頭に乗るためだ

我々は、まっすぐ東からきた波を3枚、通り抜けたけれど15メートル位あったなぁ
もう、こんな感じ(すごく高い)だった。
こんな感じで、それ(波)を結局3つやり過ごした。


最大の波は原発の防波堤の2倍以上の高さがあった

ただ、後ろの方にも変な波があったから、ちょっと、「何かがあったな」というのはあった。
何かが、悪さしたのかなと。


これは原発の作業員が、高台に逃げる同僚を写した映像である
午後3時35分、最大の波が原発を襲う
気象カメラ撮影
以前から東電は、津波への備えが甘いと科学者の指摘を受けていた。
だが何の対策もしていなかった。
この問題についてはいまだ検証中であると東電は語る。
ついに津波は防波堤を乗り越え、原発を水浸しにし始めた

ムラカミユキオ:
ここはびちゃびちゃに壊れていて、
すごい事だなという事だけはその時点で感じ取れました。


ムラカミ・ユキオ(仮名)は今も福島第一原発で働くベテラン原子力技術者だ。会社がインタビューを禁じているため、素性を明かさないことを希望している

その他、引いていった波に乗っていった車なり、物置き的な建物なり、後は5000キロリットルの重油タンクなりが海に持っていかれて、それが、どんどん沈んでいくのが光景に入っていました。

冷却装置に電気を送る非常用ディーゼル発電機は、ほとんどが地下にあった。もしもそれが使い物にならなければ、いずれ核燃料が溶け落ちて地面にめり込み、壊滅的な量の放射能が放出されてしまう

タカハシ:
非常用ディーゼル装置が、発電用の装置がやられたとか、そういったのを聞いた時には、ま「あり得ない」っていうか、ビックリしましたね。


これは制御室に残されていた当時の日誌。大惨事が近づく混乱の中で走り書きされたものだ
原子力緊急事態発令
水位計読み取り不能
非常用炉心冷却装置機能せず、注水無し
強い影響力をもつ日本最大級の企業である東電の幹部は、自身の原発が全電源を喪失する事態を想定していなかった
次の手を何も考えていなかった
小森明生東京電力原子力本部常務取締役

コモリアキオ 東京電力
今までの我々が考えていた部分を、かなり超えた領域に入っていますので、対応そのものが、あるいは対策を取るという事についてはかなり限定された手段になるだろうということは、かなり直感しました。

pm5時
菅元総理
大変深刻なことになって、非常に強い危機感を、その報告を受けた時に持ちました。
地震と津波それ自体も大変な被害でしたし、さらにそれに原発事故が重なりましたから、そのままにしておくとですね、水が無くなってメルトダウンすると、そういう事は分かっていましたので、非常に背筋が寒くなるような気がしました。

pm5時半
キムラノリオ:
沢山の大熊の町民が集まっていて、とにかくそこでの第一声が3人(父と妻と娘)がいないという事だったので、うーん、もう、寒くなるようなあれだったですね、すーっと血の気が引くっていうかね。津波でやられているっていう気持ちにはならないというか、なれないっていうか、
それから、こんどは瓦礫の中、うちの敷地の中だけじゃなくて、部落をずーっと見て回って、

pm11時半
菅:
点いたというニュースが入った時、これで当然つながってですね、
動き出すものだと思って、ちょっと、一瞬ホッとしました。

ムラカミユキオ:
電源装置が全然、水没状態になっていたんですよ。水の中に。誰もアクセスできないですよ。

タカハシ:
電源を復旧するにあたって、各自のマイカーですとか、公有車ですとか、そういった車で来られる方の「バッテリーの提供をしてもらえませんか」ということを事務所の中でもやっていました。

ムラカミユキオ:
圧力なんかどんどん、どんどん上がっていく訳ですよ。
そのころから、まわりは「やないんじゃないの?」「ヤバイんじゃない?これ」

am1時 二日目
菅:
そのまま放置すると格納容器が圧力で壊れてしまうと、万一壊れると大量の放射能が一気に大気中に出ますから、全員が、これはベントをやらざるを得ないと。
ベントをやりましょうという事で、「じゃぁ分かりましたやって下さい」と、こういったんです。

ムラカミユキオ:
ベント弁は基本的にモーター弁でMO弁になります。MO弁ですので電源がなければ普通は開きません。手動でも開くんですけれども、かなりの動力がいる弁です。

タカハシ:
(放射線の)数値が表示されていることに通常はあり得ない事なので、それもプラントの中ではなく事務所の中ですから。もう、最悪の状態だと思いました。

ムラカミユキオ:
燃料もある程度溶け始まってきているなというのも、想定していました。
マスクなり、装備は持っていましたんで、下から持ってきて、隠して足元に置いておいて、いつでも逃げられる体制を作れるように、もう、しました。

am6時 二日目
菅:
全員がベントをやるべきだと言いながら、なぜベントが進まないのか、理由が説明できない訳ですね。それは東電本店が間に入っているものですから、理由が伝言ゲームで伝わってこない訳です。

ムラカミユキオ:
菅さんは怒っていたと思いますけど、菅総理が「国が指示出しているのに、何やっているんだ東電は」必死になって対応しようとしたけどMO弁が開かなかったっていうのが裏にあって、簡単には開かなかった。一生懸命やろうとしているんだけど、追いつかなかっただけなんですよね。

菅:
(吉田所長は)分かりましたと。図面を出してこう言っていました。私としては大変重い決断でありました。しかし、そうすべきだと思ってそうしました。

キムラノリオ:
明るくなってきて、その間ずーっと住宅周辺と部落周辺を探して歩いて、うちの部落の区長さんがきてくれて、「もう原発がダメだから、離れなきゃダメだ」って説得されて、残っている人の方が・・・・・・・うん・・・・大事だからって言われて、そこで、もう…なんていうんですかね、気持ちが切り替わったですね。
あの、むすめ、残った娘(姉のほう)をね、守んなきゃならないっていう事で、うん・・・・

ムラカミユキオ:
被ばくするのを覚悟で、覚悟でいった人間がいるんですよ。その環境というのは、普通の人間が作業するような環境では全く無いという事は。現場はそうです。
温度は40何度あるし、で、周りは真っ暗で、水蒸気が溜まっているような状態で、どうせ線量も高いじゃないですか。私だったらなかなか行けないですね。相当の勇気と覚悟で、彼らは(ベントに)行ったんだろうなというふうに想定します。自分の命もかかっている事だし、

pm2時 二日目
ベント成功

タカハシ:
ホッとしましたし、早く原子炉の方が安定をして、早く、早く出して下さいという、事だけだったですかね。

ムラカミユキオ:
ケツが30センチぐらいドンッ!て浮いたんですよ。誰も分からなかったです。なんなんだ?地震かな?余震かな?

タカハシ:
余震のような感じでいたんですが、地響きのような大きな音がドドドドッ!ってきたので、ドーンッ!っていきましたから、

ムラカミユキオ:
吉田所長が「これって、1号機爆発したんじゃねぇか?」で、それからみんな大慌てになって、逃げようかって、多分思った人はいっぱい居たと思います。ただし、逃げる手段がなかったんです、もう。足がないし、走って逃げたら被ばくするし。


吉田:
どういう状況で爆発したのかが、この免震棟では分かりませんから、現場からいろいろと、怪我した人間が返ってくるという状況の中で、最悪で格納器が爆発しているという事になりますと、色々と放射能が出てくるという事になって、そこに、コントロールが不能になってという事がありまして、これで終わりかなという感じがしました。

枝野:
爆発前からの放射性物質の外部からの出方、状況には大きな変化はない。是非冷静に対応をしていただきたい。
格納容器自体の損傷が認められないという事でございます。そういうことであります。

菅:
そこに至るまでに於いて、どこまでこの事故が拡大するのかという事を考えたり、いろんな、その人に一種のシュミレーションをしてもらっていました。で、最悪のケースはですね、200キロ、250キロという範囲で、300キロという範囲まで逃げなければならない。
そうなると首都圏が全部機能マヒする。
という事は事実上日本がですね機能マヒしかねないと、

キムラノリオ:
自分の中には、ここにいちゃきっとまずいなという気持ちもあって、その間に、最近ちょっと話が出ていましたけどヨウ素剤を村の方で配ってくれて、で、娘に飲ませて、上の娘を安全なところまで運ばなければならない、それだけだったですね、もう、その時には。出来るだけ原発から離れたかった。

ヒグチノゾミ:
危ないって、もし仮にそれを発表してくれていたら、絶対別の方向に逃げていたと思うので、小さい子どもを持つ親としては、やっぱり凄く怒りを感じます。
私はその当時妊娠していたので、上の子二人ももちろんですし、お腹の子も心配だったので、とにかく安全なところに行きたいというのが、それが一番で、もう、必死でしたね。

菅:
わたくしとか、あるいは官房長官に、保安院から「SPEEDI によればこういう結果が出ているから、逃げる避難の事についてはこれを参考にこうしたほうがいいです」と言うような説明は一切ありませんでした。

生まれた時は本当に感動しましたね
「おお!やったぞ」って
とりあえず手の数数えて、足の指の数も数えて「ああ、5本5本で10本。両方10本ちゃんとあるなって」

am8時 4日目
イワクマシンジ
どうすればその仕事が早くできて、早く帰れるかという事をその時は一生懸命判断していました。
緊張はいたしました。
大変、やっぱり緊張を、我々は放射線が漏れている汚染地域に入るのは、じつは、想定した訓練はしているんですけれども、実際に入るのは初めてです。で、まさにこれからホースを接続するために車から降りようとした時に、爆発。

実は、ジープの上というのはキャビンの布で出来ているので、それを破るように大きなコンクリートの塊が落ちてきて、爆風で、接合部分からは中に放射性物質が入りましたね。
警報も付けていたんですが、それはもう、ずっと鳴りっぱなしという状況でした。
少しでも早く危険なところから離れるという事で、何十重にも運が良かった事が重なりましたね。
本当にラッキーでした。もう、ラッキー以外、何ものでもなかったと思います。

pm3時 4日目
タカハシ:
対策本部の中での、3号機が爆発した後は、社員の方でも、「もう終わりだな」というふうに、声は小さかったですけど、そう言われる方もいましたし、「早く逃げなきゃ」とか、「終わりだな」というのはありましたし、

東電 コモリアキオ:
ブラントの状況によっては、一部保安をしっかりと守るという人を除いて退避を検討するとそういう可能性が出てくるだろうと、そういうことで検討するという話を国の方にはお伝えしております、

菅:
私自身は撤退はあり得ないともともと思っておりました。つまり、撤退するという事は、6つの原子炉と7つの使用済み燃料のプールを、いわば、放棄すると。放棄したらどうなるかというと、全部がメルトダウンしてですね、まさにチェルノブイリの何十倍という放射性物質がまき散らされることになると、

ムラカミユキオ:
吉田所長は「これから避難を始めたいと思います」と。で、その時点で吉田さんは覚悟を決めていた。彼はそこで死ぬつもりだったんだろうけれども、とりあえず250人を殺すわけにはいかないんで、で、「帰ってくる」と。
「もう、ここまでやったんだからしょうがない」と。
「これ以上はもう、手段も何もないから」
「帰ってくれ」と。

タカハシ:
発言的にはちょっとあんまりよくないのかもしれないけれど、私はもう、ホッとしました。
早く出たい。

am5時半 5日目
吉田所長が東京に来た

菅:
大変な状況だけども、とにかくここは頑張ってくれととにかく放棄なんかできないんだと。
まさに日本の運命がかかっているんだと。60歳を超えた人達をね、場合によったらそういう人たちが先頭切ってでもね、多少危険なところにでもやるぐらいの事を作れという事をかなり強い調子で言いました。
あり得ないと。
いわば日本がですね、見えない敵に。なんていうか、日本の領土をですね、譲り渡すみたいなもので、もっといえば、それで、起きる影響は日本だけではなくて世界に影響を及ぼしますから。

ムラカミユキオ:
放射線量がべらぼうに高いですから、さぁどうしましょうか?無人君になっちゃう
無人君になっちゃいました。
さあ、どうしましょう。

am9時40分 7日目
ヤマオカヨシユキ
朝に、エンジンかける直前に、妻に電話して、妻がやはり、「誰かが行かなきゃならないんだったら、一生懸命頑張ってきてくれ」と「ご幸運を願います」ということで、妻も応援してくれました。
そのとき、妻も泣きながらで、・・・私も少し泣きそうになりましたけれども、その時はさすがにちょっと、「来たな―」と、「いよいよ来たぞ」という、こう、背筋がゾーッとするような感じにはなりましたけど、私は、線量計を持って、ずーっと飛行感はゼロだったですね。
原発につくまではほぼゼロでした。
ところが、直上に言った途端に、ワッ!っと線量計がワッ!と反応して、ドッと上がっていったという、絵は忘れられないです。骨組が、建物の骨組みが見えていて、壁があっちこっちに散らばっていて、・・・すごい・・・・

風に水が押し負けて行って、曲がっていってしまいまして、その状態で水を撒いた。

湯気が見えましたので、「入ってくれたんだな」というのは分かりました。
「やってやったぞ」と
「やったぞ」と
はい、みんなのためにやったんだという気持ちになれました。

pm11時 8日目
カマナカオサミ:
全隊員がさんしょうしてきまして、まず、40歳以上、放射能という事で40歳以上の、これから子どもを作るとか、そういう予定の無いものを選びました。
私は家族とは話はしていません。もう、何時でも、そういう時にはそういう現場に行くと、教育してありますんで。

トミオカトヨヒコ
ただしその放射線量ですか、それが高い低い、隊員がどういう活動をするか、精神的な面とかも色々と考えましたけれども、もう、隊員に託すしかなかったので、ですね、
もう本当に、祈るような思いで待っていました。

カマナカオサミ:
福島第一原発についた時には、すごく静かな状況で風もなく異様な静けさでありました。
まず、目に入ってきたのが、津波で流された色々な漂流物。
それから、道路が激しく歪んで、穴が開いているところもありました。
ここで自分たちがこれから1時間以内にミッションを成功させなきゃならないという、不安もありました。

ー現在400マイクロ
ー400マイクロ問題無し
ーその真ん中より左側にマンホール、ぽっかり穴があります。
ーマンホール?左側?
ー真ん中より左側
ーストップ!ホースがこちらで束ねてあるから
ーいま70ミリシーベルトパーアワー。
ー100ミリシーベルト!

カマナカオサミ:
あ、いい水が出ているとの無線が入りまして、「やった」と。これで、任務は完了出来たのかと、
後はいち早くその場所から逃げ出したいと、マイクロバスにみんな走るように。

カマナカオサミ:
(いえに)帰ってきて怒られましたけれど、「どこに行ったの?」という話で、「電話一本欲しかったよ」ていうような話しですね。

9日目
日本の将来を背負って、そこで戦わなくてはいけない。
つまり、日の丸を背負ってこれから先あの発電所で戦わなくてはいけないと思ったわけです。
線量計は3月の時点では付けていないですね。
どこが高いとか、そういう線量が高いという話は、東電の方からは直接話がされていないですね。
その時はやっぱり、急いでいる作業、緊急作業だったので、
全員文句は言わないで、みんな分かっているんで,その辺はしちゃいけない作業でも黙々と。

ムラカミユキオ:
割に表情もにこやかになってきたし、怒り口調の人間がいなくなってきた。上に立つ立場の人間は落ち着けるような言い方もしてたし。

菅:
それまではですね、どんどん見えない敵に押されてですね。そこからやっと体制が整って、反転が始まった。世界中がですね、1000機、2000機、3000機という原発を持った時に、世界にとって本当に安心な世界だと言えるだろうかと。
それ以上にならなかったのは、神のおぼしめしというのか、ということだったと。
本当に紙一重の場面が最初の1週間だったと思います。

キムラノリオさんは父と妻と下の娘を津波で亡くした。
4カ月後福島に帰ってきた。

あなたたちが突然いなくなって4カ月が過ぎ、
どうしてこんなことになったのか、色々と考えてきました。
いつかまた、ここに戻って、あなた達を奪った海を眺めながら、生活したいものです。
次が何時になるかは全く分かりませんが、必ず戻ってきます。
遺族代表きむらのりお

 小森氏の分析は、当然です。津波が来て、何もかも持ち去れた時点でどうにもならないことは、現場を知っている人間にとっては当然の分析にすぎません。それを東電は、政府に黙っていたわけです。次の新聞記事からもそれは類推されます。
2012032506.jpg
 午後9時14分の電話で、東北電力からの電源車の1台目がついたと。庶務の女の人が「よかった!」って歓声を上げた。ホッとしました。これでなんとかなると思ったんだけど・・・
 この一文で、官邸側に東電が本当のことを言っていなかったことがわかります。本来電源車がきちんと来ても、どうにもならない状態だったのは、火を見るよりも明らかです。東電の職員に本当のことを話してもらうには、一体どうしたらいいのでしょうか。

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