資料 放射性セシウム

http://satvik.jp/herbs/Chernobly.pdf



 私は、今回検出されている放射線レベルなど、過去の大気圏核実験の折の世界中に拡散した汚染物質よりも極端に少ないと主張していた。そしてあの最悪のチェルノブイリ事故でさえ、その汚染は、大気圏内核実験の20分の1であり、日本人が被った中国の核実験による被曝よりも格段に少ないのだ。それを裏付けるデータをここに紹介する。
 
 《》は引用
 
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大気圏内核実験当時の体内放射能とチェルノブイリ事故後の体内放射能(09-01-04-09)

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<概要>
 日本人の成人男子集団のチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能は、1961年から1962年にかけて行われた大気圏内核実験による体内放射能のほぼ10パーセントである。欧州中部並びに北部では同事故の体内放射能が大気圏内核実験の時の体内放射能の2から8倍になったところもあった。チェルノブイリ事故による体内放射能は日本では15か月で半分に減った。欧州でもやはり減少してきている。
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<更新年月> 
2003年03月   (本データは原則として更新対象外とします。)

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<本文>
(1)なぜ体内に放射能が蓄積するか。

 大気圏内核実験(137Cs)でも、チェルノブイリの事故(137Csと134Cs)でも放射性セシウムが環境中に放出された。放出された放射性セシウムは、食物連鎖をたどって米、野菜、牛乳や肉、魚等の食物中に入る。この食物を食べると放射性セシウムが人体へ移行して来る。身体の中へ入った放射性セシウムは血液に入って、筋肉を始めとしていろいろな組織や内臓へ運ばれて行き、決まった早さ(生物学的半減期)でそこから出て行って、体外へと排せつされる。このように放射性核種が代謝や排せつなどによって体外に出ていく場合、体内に残っている放射性核種も自然に半減期(物理学的半減期)によって減衰する。したがって身体の中に入った放射能が半分になるまでの時間は、二つの過程により減衰し、これを実効半減期と言う。大気圏内核実験やチェルノブイリ事故のように農地や牧場が広く放射性セシウムで汚染された時は、食物の放射能汚染が長く続くために食物を食べる度に食物と一緒に放射性セシウムが身体に入って来ることになる。従って、食べた食物に入っていた放射性セシウムが身体の外に出ない内に、また次の食物を食べることになるので、体内放射能は次第に高くなって行く。その高くなり方は、実効半減期が長いほど高くなる。また、食物中の放射能が大きいほど、体内放射能は大きくなる。
 
(2)核実験とチェルノブイリ事故による日本人の体内放射能量

 放射線医学総合研究所では長年にわたって全身計数装置(ホールボデイカウンタ)を用いて日本人の成人男子の放射性セシウムを測っている。1961年から1962年にかけて米国とソ連が行った大規模の大気圏内核実験による体内放射能が最も高かったのは1964年10月で730ベクレルであった。一方、チェルノブイリ事故では1987年5月に体内放射能は最も高い60ベクレルとなった。この体内放射能には大気圏内核実験の放射性セシウムが20ベクレル程度残っていた。正味のチェルノブイリ事故による体内放射能は40ベクレルである。また1年間の平均で比べると、大気圏内核実験は510ベクレル、チェルノブイリ事故による正味の体内放射能は約5%にあたる23ベクレルであった。
 
 中国も大気圏内核実験を行った。1964年から10年以上にわたり繰り返し日本から近い場所で行われ、何回もそのフォールアウトにより日本の環境が放射能汚染を受けた。そのため、この大気圏内核実験の体内放射能への影響は1961年から1962年の米国とソ連による大気圏内核実験とは日本人の体内放射能への影響のしかたがいくらか違っていた。つまり、その影響は1961年から1962年の大規模な大気圏内核実験の影響が減ってきた1967年頃から目だち始めて、日本人の体内放射能の減る早さが小さくなった。さらに時期によっては、体内放射能が増えた。しかし、1961年から1962年の米国などによる大気圏内核実験よりも影響は小さく、体内放射能が185ベクレルを超えることはなかった。チェルノブイリ事故の直前には約20ベクレルまで体内放射能が減少した。チェルノブイリ事故による体内放射能への影響はさらに小さかった。放射性セシウムの日本人の体内放射能への影響の大きい順に並べると、米国とソ連が1961年から1962年に行った大気圏内核実験、中国が行った大気圏内核実験そしてチェルノブイリ事故となる。
 
 日本で中国の大気圏内核実験により体内放射能が増加したときに欧州では影響がほとんど認められなっかったように、放射能汚染は事故サイトに近い程大きい。チェルノブイリの事故サイトに近い欧州では事故の影響が大きく、これらの地域では大気圏内核実験による137Csの体内放射能よりもチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能の方が大きい国もあった。(表1参照)
 
表1 大気圏内核実験による体内放射能とチェルノブイリ事故による体内放射能 

表1 大気圏内核実験による体内放射能とチェルノブイリ事故による体内放射能



  日本人のチェルノブイリ事故による放射性セシウムの体内放射能は約15か月で半分まで減り、その後も同様に減り続けている。欧州でも放射性セシウムの体内放射能は事故1年後に最大になった後は、減り続けている。
  
(3)チェルノブイリ事故汚染地域住民の内部被ばく線量

 ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地域の住民が1986年から1995年までの期間に受ける推定集団実効線量を表2に示す。事故後最初の10年間に与えられた集団実効線量は、外部被ばくから24200人・シーベルト、内部被ばくから18400人・シーベルト、合計で42600人・シーベルトで平均実効線量は8.2mシーベルトと推定される。最初の10年間に与えられた線量が外部被ばくの生涯線量の60%、内部被ばくの生涯線量の90%と仮定すると、平均生涯実効線量は12mシーベルトに相当する。
 
 
 結論を言うなら、過去日本人は基準値の数十倍以上の放射線を何年にも渡って浴びていたし、汚染された食品を摂って体内に取り込んでいた。しかし、健康被害は全くなかった。その間日本人の平均寿命は伸び続けている。
 
 現在の基準値とはその数値の全く意味もないほど低い数値を定めている。確かに全く何もない状態では、検出されない線量だろうが、これは飛行機による移動などで簡単に何十倍にも達する数字だ。そもそも、基準値自体が意味がない。
 
 後述する青酸カリの致死量のようなものだ。仮に青酸カリの環境基準値が定められたとして、致死量は成人では300mg、環境基準では10μグラムです、と言うようなもの。10μグラムの千倍をとっても人間の健康には影響がない。そのイメージだ。


放射性同位元素についての一般的データ

今回方々で検出されている放射性ヨウ素、セシウムなどは、原子炉燃料が炉内で核分裂反応をした結果生じた物質であり、今は核分裂反応は無いので、新しく出来ることはない。違って、今環境に漏れているこれらの物質はきわめて限定的であり、確かに今の処理過程で漏れ続けることがあったとしても一時的な上昇はあるが、無限に増え続けるものではない。まして、放射性ヨウ素131の半減期は8日であるから、今原発に存在しているものも環境に漏れだしたものも、8日で半減し、3ヶ月もすれば検出不可能なレベルに消滅してゆくし、その間に拡散希釈してゆくのだ。したがって、放射性ヨウ素が人体に取り込まれる期間はどう考えても2,3ヶ月以上であるわけが無く、一年以上続けて摂取した場合の基準など意味がないことが分かる。誰かが一年以上放射性ヨウ素を作り続けて、ばらまき続けなければならないが、とんでもない金がかかる。

セシウム134は半減期が30年なので、事実上環境にばらまかれたものは長期に渡って存在し続けるが、実際には拡散希釈して検出不能レベルになる。今、おそらく大量のこれらの放射性物質が海に流れ出ている。これは大量の水をかけており、その水が海にそのまま流れ出ているのだから当然で、その出口ではかった量が通常に数百倍であろうと、一切気にすることはない。海水の量を考えれば、競技用プールいっぱいに、インク一滴を垂らしたよりも量は少ない。

なお、中性子も検出されたと言うが、検出可能ぎりぎりのレベルであり、それなら自然界にいくらでも存在するレベルだ。ウラン鉱山の近くに住んでいる人たちは中性子を浴びているだろうが、全く影響のない、無視しうるレベルだ。

イメージで人は恐怖を抱く。誰かが水道水源に青酸カリを混入したとしよう。おそらく東京都民はパニックになってミネラルウォーター業者に貢ぐのだろうが、全くそんな必要はない。

青酸カリの致死量は、体重60キロの成人の場合、300mgとされている。一方たとえば今回汚染されているという金町浄水場の貯水池は286,800m3であり、仮に1トンの青酸カリを運んできてぶちまけ完全に攪拌したとして、濃度は30PPMだから、大人の致死量の10分の1、30mgを摂取するためには9リットルを一気飲みしなくてはならない。もちろん、確実に死ぬためには90リットルを一気飲みする必要がある。だらだら飲んでいると、排出されてしまうからだ。おそらく、青酸カリで死ぬより先に、水の飲み過ぎで死ぬのではないか。

今回の放射性同位元素もそんなイメージだ。

放射性ヨウ素は放って置いても消えて無くなるし、セシウムは人体に取り込まれる率がかなり低い。ほとんど排出されてしまう。そしてごく一部取り込まれたものも、2~300日で新陳代謝により完全に排出され、その間の体内残留量は検出すら難しい微量なのだ。

そのことについては、幸か不幸か日本は広島、長崎、第五福竜丸などのデータが非常に豊富にあり、きわめて確実に認知された事実だ。専門家がこぞって、心配はないというのは、決して気休めなのではなく、世界で一番充実したデータに基づいての話だ。

そもそも、政府発表で、乳児にたいする基準の倍だが、ミネラルウォーターが入手できなかったら飲ませてもかまわないなどとふざけたことを言っている。後から叩かれたくないだけの小細工であり、実際にはデータに出た数字は、乳児に飲ませても全く問題がないと言っているのだ。



単位

シーベルト 人体が放射線に受ける影響度

ベクレル  放射線源の強さ

なお、水道の汚染問題で、乳児向けに東京都が24万本を配ると言うが、今すぐ必要な家庭に届くわけがない。乳幼児に水道水を飲ませても良いと明言すればよいのだ。確かに、差し支えないと言っているのだから。とにかく発表すれば責任はない、と考えただけで、その後のことを理解していなかった。菅内閣や小役人の考えそうなことだ。

つまり、どんな損失が出ても、それは東電の責任であり、補償は最終的には国庫からなされるのだから、とにかく情報開示の責任だけは果たした、というだけだ。だが、情報を理解させる努力はしていないし、第一自分たちが理解しようとしていない。









放射線障害防止法に規定するクリアランスレベルについて
平成22年11月
放射線安全規制検討会
文部科学省
科学技術・学術政策局



http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2011/02/04/1301631_1.pdf







被曝するとはどういうことか(被曝の意味)
1、被曝
 
被曝とは人が放射線を浴びること。
その結果、人の身体にどういう影響があるか。それについて考えたい。
例えば、3月14日に、米軍第7艦隊は福島第一原発から約160km離れていたにもかかわらず、被爆したので退避したと報道された(東京新聞3月14日)。彼らは臆病者なのだろうか。彼らの対応は決して単なる感情や気分ではなく、科学的な研究の裏づけに基づいている。例えば以下のような研究である。

2、アーネスト・スターングラス博士の青森市講演(2006年3月)
--放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です--

1923年ベルリン生まれ。アメリカのピッツバーグ医科大学放射線科の放射線物理学名誉教授。
1967年から同大学の放射線物理・工学研究所を指揮し、X線と放射線医療診断における放射線量を低減させる新しい投影技術の開発。
放射性降下物と原子炉核廃棄物による人間の健康に対する広範囲な医学的影響調査研究を行い、その結果をアメリカ議会で発表。すなわち、アメリカとソ連が核実験を繰り返していた冷戦当時、核実験の死の灰(放射性降下物質)による放射線の影響で世界の子どもたちの白血病やガンが急増している事実を議会で報告し、それがきっかけとなって米ソ核実験停止条約が締結された。

長年に渡って低レベル放射線の危険性を訴えている。
現在、ニューヨークの非営利団体「放射線と公共健康プロジェクト」の科学ディレクター。
「低レベル放射能」(1972年)、
「隠された放射性降下物」(1981年)、
「ビッグバン以前」(1997年)











スライド 01

私が原子力発電所からの放射線拡散に興味を持つことになったのは、最初の子どもが生まれた時です。ピッツバーグで、ちょうど家を建てていました。
当時は冷戦最中で、死の灰から身を守るために核シェルターを作らなければならないと言われていました。私はアメリカ科学者同盟(Federation of American Scientists)のメンバーでしたが、ずっと前から私たちは米ソ軍備競争は止めなければならないと警告していました。当時、政府が、核爆発を何回行いその放射性降下物(死の灰:Fall Out)がどこに行ったのかという報告書を初めて出したので、私たちはそれを調査していました。
議会で公聴会が開かれ、その際イギリスのアリス・スチュワート博士の論文が報告されました。スチュワート博士はオクスフォード大学で、イギリスの子どものガンや白血病が急増している原因について研究していました。彼女はガンや白血病になった子のお母さんのグループと健康なこどものお母さんのグループに100の質問アンケートを送りました。アンケートを回収すると驚いたことに、10歳未満のガンや白血病の子どものお母さんたちが妊娠中にエックス線を浴びていたことがわかりました。
それが、わずかな放射線でも人体には影響を与えることの初めてヒントになりました。つぎのグラフがその研究結果です。
スチュワート博士が発見したのは、数回のエックス線照射でガン発生率が倍増することです。この際、1回のエックス線の放射線量とは自然界の環境放射線の約2年分に相当します。この放射線量というのは、大人にガンを発生させる量に比べるとその10分の1から100分の1に相当します。赤ちゃんや胎児は100倍も影響を受けるのです。また妊娠3ヶ月未満にエックス線を浴びたお母さんの子どもの幾人かは、ほかのお母さんのこどもより10〜15倍ガンの発生率が高かったのです。
政府は(核戦争があっても)核シェルターから出てきてもまったく安全だと言いましたが、それは1000ラッドの放射線量の環境に出てくるわけです。それはエックス線を数千回浴びることに相当するわけですから子どもたちが生き延びることは不可能です。ですから、このような人類の惨禍を防ぐために核兵器を廃絶しなければなりません。それで、私は、核実験の後のアメリカの子どもたちにどのような影響があるのか調べ始めました。

スライド 02







スライド 02

この図は、乳児1000人に対する死亡率を示しています。年ごとに始めは下降していきますが、途中で急に下降が止まります。それはネバダの核実験が始まったときです。それ以降、核実験のたびに乳児死亡率も合わせて上昇しています。これは米ソ英による大気核実験停止条約が締結される1963年まで続きます。しかし、中国とフランスは核実験をつづけました。1961年に北シベリアでソ連が5000万トンのTNT爆弾に相当する巨大な原爆実験をしました。広島原爆は1万キロトンTNTでした。広島の5千倍の威力の原爆です。これは北半球に住む人間全員に腹部エックス線照射をしたことになります。これから世界中の子どもたちにガンや白血病が発生することが予想されます。そしてその後、実際にそうなりました。私は核実験を止めないと世界中の子どもたちにガンや白血病が発生することになるとサイエンス誌で警告しました。幸いなことに当時、ソ連のフルシチョフ首相と核実験停止条約を結ぼうとしていたケネディ大統領のもとで働いていた友人がホワイトハウスにいました。しかし、条約が締結されるには議会の上院での承認が必要です。そこでケネディ大統領はテレビとラジオで演説し、われわれの子どもたちの骨に含まれるストロンチウム90や血液中の白血病細胞をなくすために核実験をやめなければいけないと国民に呼び掛けました。するとたくさんの女性が乳母車でホワイトハウスを囲んだのです。また上院議員たちに手紙を書き、電話をしました。私は議会で証言する必要があると言われました。それから約1ヶ月後の8月にワシントンに行って議会で証言するようにという手紙を受け取りました。幸いにも、ハーバード大学のブライアン・マクマーン博士がスチュワート博士と同じ研究をアメリカ国内で行っていて同様な結果を得ていました。エドワード・テラー博士が、核実験は継続するべきだと証言しましたが、合衆国上院は条約批准賛成の投票をしました。すると幸いなことに、その後乳児死亡率が下がったのです。しかし、すべての州でベースライン(核実験がなかった場合に予想される乳児死亡率)に戻ったわけではありませんでした。



スライド 02



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多くの州では乳児死亡率の下降が止まってしまいました。ベースラインとの差がまだありました。



スライド 03





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乳児の死亡の主な原因は、多くの場合出産時の体重が平均よりも低体重(2キロ以下)であることが考えられます。乳児の低体重率は条約締結後低下し、そのまま降下するはずでした。しかし、2つのことが起こりました。ペンシルバニアでスリーマイル島事故と呼ばれる大きな災害が起こりました。ハリスバーグ近辺の原子力発電所の原子炉事故です。その後しばらくして乳児低体重率の下降が止まり上昇し始めました。それから1986年のチェルノブイリ原発事故です。それによって放射性降下物質が世界中に広がりました。低体重率はその後上昇し、大気核実験が行われていた時期と同じレベルに戻ってしまいました。このころから明らかになったことは、放射性降下物(Nuclear Fallout)が、原子炉事故と原子力発電所の通常運転による放出にとって替わられたと考えられることです。



スライド 05 (大)スライド 04

スライド 05 (大)


低体重で生まれた子は、深刻な知的およびほかの肉体的な問題を抱えています。とくに初期の学習能力障害や後期の精神障害などです。この表はたくさんの原子炉がある州(ニューヨーク、ニュージャージー、イリノイ、フロリダ、カリフォルニア)とない州との(乳幼児死亡率)比較です。ご覧のように核実験中は下降が停止して横ばいになっていますが、(核実験が終わっても)もとのベースラインに戻ることはありません。ところが原子力発電所がないネバダでは核実験が終わるとベースラインに戻っています。ほかの原子炉がないニューメキシコ、ケンタッキー、ワイオミングなどの州も同様です。これは原子力発電所の原子炉が関係していることを示す非常に明確な証拠です。

スライド  05 (大)

スライド 06

われわれはこのことを確証するために他の証拠を探しました。1935年から乳幼児死亡率は年率約4%ほどで下がって行きます。それはベースラインにそって下がっていくはずだったのですが、上昇し始め、核実験期間中に1958年にピークになり、その後下がって行きますがベースラインまでに戻ることはありませんでした。その結果、なにもなければという想定数値に比べ100万の乳児が死んだことになります。

スライド  06

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重要なことはアメリカ国民全員が被曝している事実です。この図は7、8歳になったこどもから取れた乳歯に含まれているストロンチウム90の値で、骨に蓄積していることがわかります。この表から60年代前半に、乳歯中のストロンチウム90が環境中のストロンチウム90の値を反映していることがわかります。核実験が終わると下降しますが、その後下降が止まり横ばい状態になります。ちょうどこの頃アメリカでは大規模な原子力発電所が操業開始しました。それは日本も同じです。それ以降80年代中頃になっても横ばいが続きます。そして最近になってまた上昇し始めました。このことからも、一見何も無いような平和的な原子力発電所の日常運転による放出も、核実験中と同様に、ストロンチウム90の原因であるという重大な事実がわかります。86〜89年に少し減少しているのは原子力発電所の稼働率減少や閉鎖されたことによる影響でしょう。重要なことはその後数年にわたって上昇しつづけていることです。また、ガンになった子どもにはガンにならないこどもの倍のストロンチウム90があることが分かりました。

スライド 07







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これまでに、私たちはほぼ5000本の乳歯を調査しました。この表からも、どうしてこのようなことが起きているのかを理解することができます。これは政府が発表したミルク中のストロンチウム90の値です。コネチカットのミルストーン原発からの距離との関係を示しています。この原発から数マイル(1マイル=1.6キロ)以内に住んでいる人たちのレベルは、大気核実験中の時の最高値よりも高くなっています。それと同じ原子力発電所がある日本では、なにも危険なものは出していないと言われています。これはジェネラルエレクトリックの原子炉です。表から、100マイル(160キロ)離れていてもミルク中には高いレベルのストロンチウム90が含まれていることがわかります。多くの原子炉を抱える日本ではその周囲が非常に放射能汚染されていることが予想されます。







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この表から、1970年から1975年にかけて、ガン死亡率が原発からの距離に比例して低くなっていることがわかります。原子炉があるところではわずか5年間で58%死亡率が上昇しました。これから、ガンが原子炉からの核物質放出を明瞭に反映するインジケーター(指標)であることがわかります。しかし今だに原子力発電はクリーンだと宣伝されています。放射能は見えない、臭わない、味もしないからです。理想的な毒です。



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コネチカットでは1935年からの甲状腺がんのデータがあります。甲状腺がんに罹ったひとは政府に報告する義務がありました。これは死亡率ではなくガン発生率です。1935年〜1945年では変化がなく、むしろ減少経過があります。そして医療の向上や改善によってさらに減少するはずでした。しかし1945年からわずか5年間で3倍にもなります。そして大気核実験のピークから5年たった1965年に再び上昇します。また、大きなミルストーン原子力発電所が稼働し始めてから5年後に急激な上昇がはじまります。チェルノブイリの事故から5年後に大きな上昇が起こります。ここで重要なことは、甲状腺ガン発生率の増大が医療の向上を反映していない事実です。ガン発生率が0.8から4.5に5倍も増大したことは統計的にも小さな変化ではあり得ません。



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これは同地域の乳がん発生率です。同じように1935年から1945年までガンの発生率は上昇していません。実際、多少減少傾向にあります。そして核実験中に上昇し、1967年にコネチカットで最初のハダムネック原子炉が稼働すると急激に上昇します。1970年にミルストーン原子炉が稼働するとその5〜8年後に大きく上昇します。
日本でも同じような研究をすべきでしょう。



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政府は、肺がんやその他の病気は喫煙が原因だとみなさんに信じてほしいと思っています。大規模な核実験が終わった1961〜62年から1990年までに、18歳以上の女性の肺がん死亡率は5倍以上になっています。実際には女性の喫煙率はどんどん落ちているのです。

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世界中の政府や国際原子力安全委員会などは、放射能による影響はガンと子どもの先天性障害だけだとみなさんに信じ込ませようとしています。しかし実はさまざまな面で健康に影響を及ぼしているのです。乳児死亡率や低体重児出産のほかに糖尿病があります。1981年から2002年の間にアメリカの糖尿病罹患者は5.8x百万から13.3x百万に増加しました。それと同時に原子力発電所の稼働率は40〜50%から92%に増大しています。(注:アメリカ国内の原子力発電所の建設は1978年以来ないので稼働率が発電量を反映する)原子炉の検査やメンテナンスや修理の時間がより減少してきたことがあります。その結果、振動によってひび割れや放射能漏れが起きています。
1959年ドイツのスポーディ博士などのグループがストロンチウム90をたくさんの実験動物に与えました。それらは当初カルシウムのように骨に蓄積すると予想されていたのですが、実験室がイットリウム90のガスで充満していることを発見しました。イットリウム90は、ストロンチウム90の核から電子がはじき出されると生成する元素です。このようにストロンチウム90からイットリウム90に変換します。そこで実験動物の内蔵を調べた結果、ほかの臓器にくらべ膵臓にもっともイットリウム90が蓄積していることが判明しました。また、肺にも蓄積されていましたが、それはラットの肺から排出された空気中のイットリウム90をまた吸い込んだためだと考えられます。膵臓はそのβ細胞からインシュリンを分泌する重要な臓器です。それがダメージを受けるとタイプ2の糖尿病になり、血糖値を増大させます。膵臓が完全に破壊されるとタイプ1の糖尿病になり、つねにインシュリン注射が必要になります。おもに若年層の糖尿病の5〜10%はタイプ1です。アメリカと日本に共通していることですが、ともに膵臓がんの数が非常に増加しています。

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アメリカの普通死亡率推移(1900〜1999)。これは乳幼児死亡率、肺がん、膵臓がん、乳がんなどすべてのガン、糖尿病などのすべての死亡率(1000人中)の総計です。1900年から1945年までは年率約2%で死亡率が下がって行きました。唯一の例外は1918年に世界的に流行したインフルエンザの時です。このときはアメリカも日本も世界中が影響を受けました。この間ずっと、化学物質や喫煙率も増えているのにもかかわらず死亡率は減少しています。それはネバダの核実験が始まる1951年ころまで続きます。そして核実験が終わって少し下がりますが、やがてほとんど下がらずに横ばい状態が続きます。予想死亡率減少ラインから上の実際の死亡率ラインとの比較から、アメリカでこの間2000万人が余計に死んだことになります。広島や長崎で死んだ人の数よりはるかに多くの数です。

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これは日本の膵臓がん死亡率のチャートです。前述したように、1930年から1945年ころまでは低くまったく変化がありません。しかし、1962〜63年ころまでには12倍に増加しています。これは東北大学医学部環境衛生の瀬木三雄博士たちの1965年のデータです。これからお話しすることは本当に信じられないことです。この12倍になった死亡率が、2003年までにはさらにその3倍から4倍になったのです。ストロンチウム90やイットリウムが環境に放出されることがなければ膵臓がんの死亡率は減少していたでしょう。アメリカでは約2倍になっています。
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スライド 16

これは同じ東北大学のデータで日本の5〜9歳男の子のガン死亡率チャートです。1935年から1947年までは実際に死亡率が減少しています。それ以降、ソ連の核実験やアメリカの太平洋での核実験が度重なるにつれ、6倍に上昇しています。そしてこれ以降もさらに増加していることがわかっています。これらのデータは政府刊行物である「人口動態統計」からとりました。このような詳細にわたる統計は世界でもいままで見たことがありません。

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スライド 17

同様に東北大学のデータです。これはアメリカ(非白人)と日本の男性のガン死亡率を比べたものです。1920年から1945年まで、この間喫煙率や化学物質の量が増加し、また石油、ガス、石炭の消費量増加による大気汚染も増加しているにもかかわらず、日本ではほとんどガンの増加はありません。非常に重要なのは、このことを理解しないと放射能を理解することができません。1945年以降ガン死亡率が急に上昇し、1962年にまでに42%増加します。それ以前にアメリカと日本で少し減少したところがありますが、これは核実験を一時停止した時期です。
これらは核降下物の低レベル放射線が原因であることの強力な証拠です。しかし、政府は、その量があまりにも低すぎて検出できないと主張しています。


スライド 17




スライド 18

これは1970年以降の日本の原子力エネルギー生産量を示したものです。一時増加が止まった時期もありますが、最近では急激に上昇しています。これは原子炉の稼働率をなるべき上げるようにしているからです。アメリカも同じです。

スライド 18


スライド 19

1950年から2003年までの、さまざまなガンによる男女別死亡率の推移です。これを見るとわかるように、1970年ころから急に上昇し始めますが、1950年ころからすでに上昇し始めています。もっとも増加したのは男女とも肺がんです。大腸がんは女性の方がやや高いですが、やはり急激に上昇しています。膵臓がんは1962年までにすでに12倍に増えていますが、さらに大幅に上昇しつづけています。このことから日本になぜアメリカの倍の糖尿病があるのかという説明になります。
スライド 19



スライド 20

1899年から2003年までの主要死因別死亡率の推移です。これは男性女性を合わせたものです。1900年代初頭は世界的な疫病が流行し、1918年に肺炎死亡率がピークになってやがて降下していきます。抗生物質の出現で肺炎を含む感染性疾患は1990年ころまでに減少します。ではガンはどうでしょう。現在日本中の最大の死亡原因はガンです。東北大学の瀬木博士が指摘しているように、1962年ころまではガンの大きな増加はありません。それまでの感染症(伝染病)が増加した20〜30年間にガンは多少増加していますが、これはガン全体の20%がバクテリアやウイルス感染に起因することが影響しています。感染症が横ばいになるとガンも同様に1945年まで変化しません。その後1947ごろから急激にガンが上昇し始めます。そして1966年商業用原子力発電所の放出が始まるとさらに上昇します。もし、これらが核実験によるものであるのなら減少していかなければならないはずです。ところが実際には、ガンの早期発見や治療法の向上にもかかわらずガン死亡率は増加しつづけています。1990年代はじめから急激なガン死亡率の上昇が見られます。このときに放射性物質を含む劣化ウラン兵器がアフガニスタン戦争やイラク戦争で用いられました。それが世界中を回っているのです。
ですから、平和的な原子力発電所の放出から平和的な劣化ウラン兵器に置き換わったわけです。安すぎて計量できないと言われたクリーン原子力エネルギーのおかげというわけです。

スライド 20




スライド 21

1899年から2003年までの死亡数と死亡率の推移です。世界的なインフルエンザ大流行の時期に大きなピーク(1918年)があります。その後下降し、広島・長崎原爆後もまた核実験が終わったあとでも下降しています。それはその後もそのまま下降するはずでした。ところが1970年ごろから下降が止まります。そして1990年ころになって、1918年以来はじめて上昇し始めます。これから国の医療費の負担がいかほどになったか想像できるでしょう。国の将来を担う新生児が影響を受けているのです。赤ちゃんだけではありません。死ななくともいい人びとが多く死んでいるのです。巨大な軍事費の代わりに、あなたの国はなんとか死亡率を下げようと巨大な医療支出を被っています。どなたか広島・長崎以降の国家医療費の総計を原子力発電所の推移とくらべて調べてみるといいでしょう。
これが私のみなさんへのメッセージです。民主主義のもとで選ばれた、みなさんを代表する議員たちにこのことを伝えてください。私たちがホワイトハウスを乳母車で囲んだように、みなさんも乳母車で国会を囲んでください。
ありがとうございました。


スライド 21





3、米国と日本の乳がんの分析--肥田舜太郎・鎌仲 ひとみ『内部被曝の脅威』(ちくま新書)114~120・141頁から--


米国の乳がん
  公表された事実  
   1950~1989年の40年間に婦人の乳がん死亡者が2倍となった。そのため、世論は政府に   原因究明を求めた。p114



政府による原因究明
 政府の調査報告書曰く「乳ガンの増加は、戦後の石油産業、化学産業などの発展による大気と水の汚染など、文明の進展に伴うやむを得ない現象である。」p114

統計学者グールドの批判
1、全米3053郡が保有していたその40年間の乳ガン死亡者数を使い、増加した郡と横這いか減少した郡とに分類して、郡ごとの動向を調べた。その結果、全米一様に乳ガン死亡者が2倍になったのではなく、1319郡(43%)が増加し、1734郡(57%)では横這いか減少していたことが判明。
2、では、なぜ、このような明瞭な地域差があるのか。
3.その原因を探求した末、彼は1つの結論に達した--原子炉から100マイル(161㎞)以内にある郡では乳ガン死亡者数が増加し、以遠にある郡では、横這いか減少していた、と。
ーー>原子力施設と乳ガン患者の相関関係の図 (図の黒い部分が原子力施設から100マイル以内に位置している郡)



なお、グールドの原文と図は-->こちら141

High Risk Counties Within 100 Miles of Nuclear Reactors Figure 8-11 from The Enemy Within: The High Cost of Living Near Nuclear Reactors by Jay M Gould. Four Walls Press, New York 1996


日本の乳がん公表された事実
1950~2000年の50年間に、婦人の乳ガン死亡者数は4.3倍となった(10万人あたり1950年が1.7人が、2000年では7.3人)。2006年では対10万人率が17.3。10倍強となった
                                    ーー>グラフp11





肥田舜太郎らの分析
グールドにならって、日本で原子力施設から100マイル(161㎞)の円を描いてみた。すると、列島全体が多重の円で蔽われてしまって、グールドのように2つの地域のに区分けできなかった。





東日本6県の特徴

これまでに、乳ガンの死亡率が12人(10万人あたり)を超えた県は青森・岩手・秋田・山形・茨城・新潟の6県。この6県の乳ガン死亡率のグラフには顕著な特徴が見て取れる
                                                            -->6県の乳ガン死亡率のグラフ

それは、1996~1998年だけ突出している。
なぜ、このときだけ突出したのか。
肥田らは原因を探求した末、1つの結論に達した--1986年のチェルノブイリ事故による放射性物質の汚染である。すなわち、
(1)、この事故による放射性物質の汚染は東日本でひどかった(原子力安全研究グループチェルノブイリ新聞切り抜き帖 86/07/02朝日「放射能汚染は東高西低」 1950年以来のセシウムの秋田での降下量のグラフでも、1986年のチェルノブイリ事故のとき、セシウムの降下量が突出している)

(2)、放射性物質が体内に入ってから乳ガンを発症し死に至るまでに平均して11~12年はかかると言われている。
(3)、従って、上記6県で1996~1998年にだけ乳ガン死亡率が突出したのは、10~12年前のチェルノブイリ事故による放射性物質の汚染によるものである。118



























「内部被曝」について  (その1)「内部被曝」とは

わたしの発端
乳ガン死亡率の上昇
チェルノブイリ事故の影響
アメリカの内部被曝を認めない態度


「内部被曝」について (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8) 目次 へ





(1.1) わたしの発端

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』(ちくま新書 2005)を読んだ。肥田舜太郎(ひだしゅんたろう 1917生れ)は陸軍軍医として広島で被爆し、同時に被爆者の治療にあたった。そのあと戦後一貫して被爆者の治療にあたり、そのなかでも特に内部被曝という観点をもちつづけていた。鎌仲ひとみはドキュメンタリー映画制作者で、環境問題に関わってきている。映画「ヒバクシャ」には肥田も出演しており、様々な賞をとっている。
『内部被曝の脅威』という本は、残念ながら、本としての出来はあまり上等ではない。色々と貴重なデータや観点がゴチャゴチャに詰めこまれていて、全体として訴えかけてくるものが分散している。しかし、触発されるところの多い本だった。

“ピカドン”と原爆にうたれて人間が即死に近い状態で死ぬ。あるいは数日のうちに死ぬ。これは、強い放射線にさらされて人体内部が細胞レベルで破壊されてしまうからである。もちろん、それ以外に強い熱でヤケドを負ったり、強い爆風で吹き飛ばされたりすることも致命的になる。極端な場合は、強い熱線で瞬間的に蒸発してしまうこともある。このような、人体外部からくる放射線でやられる場合を外部被爆と肥田はいう。東海村の臨界事故(1999)で死んだ2名は、まさに、この外部被爆の純粋な形である。(しかし、「外部被」と「外部被」を区別して使うのは、実際には混乱しがちである。また、厳密に区別して使用することにそれほど意味があるとも思えない。本論が放射線を扱うことが主なので、以下、わたしは「外部被曝」を使う。特に意味があると思える場合には「外部被爆」とする。放射線・熱線・爆風が同時に来るような場合である。
それに対して、放射性のチリや液体を体内に取り込み(呼吸、経口、皮膚から)体内に沈着した放射性元素が体内で放射線を放出することによって放射線障害を起こしたり、ガンを発病したりする。これを内部被曝という。

外部被曝と内部被曝は、いずれも放射線による細胞破壊であるという点では本質は同じなのだが、実際には、大いに異なる点がある。まず、本質は同じとは言いながら
(1) 外部被曝は、外部の放射線源から出た放射線は空気中を伝わってくるから、ガンマー線や中性子線は問題になるが、アルファ線はほとんど問題にならない(空気中数㎜で止まってしまうから)。ベーター線(電子線)は数mは進むので、線源との距離による。
それに対して、内部被曝は体内に沈着した放射性物質が放射線を出すのだから、μm(マイクロメータ、ミクロン)単位で(場合によってはもっと狭い分子の大きさ、nm ナノメートルの単位で)影響が出る。しかも、放射線が細胞内のたとえばDNAを直接破壊して突然変異の原因になるというような場合だけでなく、放射線が水分子を壊して活性酸素を作りだし、その活性酸素が細胞に悪影響を与えるというような、何ステップかを踏んでいる場合もある。生物生理としての濃縮などを考慮する必要もある。したがって、放射線のエネルギーが小さくとも悪影響はありうる。“放射線のエネルギーが大きいほど被害も大きい”という常識は通用しない。生物体は精緻な構造をもっていて、しかも、自己修復機能などが動的に働いている。低レベルの放射能は低レベルなりの壊し方をする、と考えておくべきである。
もうひとつ、重要な点は線量測定のことである。放射線の量である。
(2) 放射線は臭いも色もないので、その存在を確認するのは、特別な計器などを必要とする。放射線の量はガイガーカウンターのような計器で計る。ところが、それは、通常ではすべて外部被曝の線量を計ることになる。
内部被曝の線量を測定することは、極めて難しい。体内にμm単位で計器のゾンデを埋めることが難しいからである。つまり、内部被曝の現象は、理念的には明瞭だが、実証するのはとても難しい。
この線量の話は、許容量のことと密着する。どれくらいの放射線に照射されても大丈夫か、という量。これの算定の基礎になるのは、ひとつ自然放射線の量、もうひとつは広島・長崎での原爆被害の例。しかし、それらはいずれも外部被曝からでてくる線量である。
外部被曝から求めた許容量を、内部被曝にも適用できるか。これは、大問題で、決着が着いていない。
(3) 外部被曝から求めた許容量を、内部被曝にそのまま適用すると、多くの場合、“健康には影響ない”となる。呼吸などで体内にとりこむ放射性チリなどは、たいてい、ごく微量だから。
そもそも、アメリカをはじめとする原子力推進を考える国家や原発会社は内部被曝という考え方そのものを認めない。内部被曝を認めない場合、広島・長崎の原爆の被害者に関して、信じられないようなつぎのような見解が公式のものとなる。1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」である(前掲書p66)。

被ばく者は死ぬべき者は全て死に、現在では病人は一人もいない。

こういいう驚くべきアメリカの公式見解(これが虚偽であることは明らかである)を持ちつづけなければ、劣化ウラン弾などは使用できるはずがない。アメリカ政府について驚くのは、国内の原子力施設でもこの考え方を“愚直に”まもっているようにみえることで、ハンフォード(コロラド川流域)やオークリッジ(テネシー州)などの「マンハッタン計画」を実践した施設周辺での放射性物質の漏洩・汚染はひどいものである(これらについては、「中国新聞」の秀逸な特集核時代 負の遺産で知った)。アメリカ政府は自国民に対しても自国内で多数の被曝者をつくりだしている。

わたしは「マンハッタン計画」の“成功”と同時に全世界に向かって虚偽を声明することで、アメリカの20世紀後半の世界戦略がはじまっていることに気づいた。これが、“自由と繁栄”を売りものにするアメリカの覇権の教義である。
核兵器と原子力の安全性をトコトン追求していくことは、20世紀後半以降のアメリカ覇権主義の“アキレス腱”を突くことになっているはずである。

1968年の段階で「被曝者で死ぬべき者はすべて死んで、現在は病人はいない」というのは、事実に反している乱暴な見解であるが、あるいは“これは原爆症の範囲をどこまで広げるか”の解釈の相違の問題なのではなかろうか、と思う人もあるかも知れない。でも、それはアメリカに対して、あまりにも好意的すぎる考え方であると言わざるを得ない。なぜなら、下の(1.4)節で紹介するが、これとほとんど同文の声明を、アメリカ陸軍准将・ファーレルが、1945年9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表しているからである。原爆投下して、わずか1ヶ月後のことである。しかも、ファーレルは現地を視察しないで、この声明を発表している。

これが、わたしの発端である



(1.2) 乳ガンの死亡率の上昇

まず、つぎのグラフをじっくりと眺めて欲しい。これは1970年から2006年までの、日本の女性の乳ガン死亡者数(10万人に対する率)の推移を示している。容赦なく増加し続けていることがよく分かる。


最新データの2006年を述べておく。女性の乳ガン死亡者が11,177人、対10万人率が17.3。(じつは本稿の「暫定版」では、ここに『内部被曝の脅威』からとったグラフを掲げていたが、そのグラフは男性を含めた全人口に対する比率になっていたので、改めて、「人口動態統計」から作図しなおした。

わたしは、ずいぶん多いものなんだなあ、と思った。わたしの知人の範囲でも乳ガンの手術をしたという人が複数いるから、乳ガンの罹患者というのは莫大な数になるのだろう。このグラフは、そういう多数の日本人女性を分母にした、彼女らの乳ガンに関する35年間の「動向」を表現している。
10万人に対する率としている意味を汲みとってもらいたい。たとえば、女性人口がドンドン増加している時期であれば、ある病気で死ぬ人数がドンドン増加するという場合もある。上のグラフが示しているのはそうではなく、日本女性の全体数とは無関係に現れている傾向だというのである。つまり、確かに日本女性は、乳ガンが原因で死ぬ率が増えているということだ。

一貫した増加傾向にあるということは、恐ろしい意味がある。乳ガン検診による早期発見や治療は、数十年前と比べれば手厚くなっている。また、検診に対する女性の意識もずいぶん変わった。だから、乳ガンによる死亡率は減少しても不思議ではないのである。それにもかかわらず、「一貫して」増加しているのである。
これが意味しているのは、次のことしか考えられない。
乳ガンをつくる原因が増加している
ということである。それが、何か食品でも自動車排気ガスでも合成洗剤でも他の×××でもよい。ともかく、それが「一貫して」増加しているのである。

前掲の『内部被曝の脅威』p114以下で、肥田は、上のグラフを作成する動機はアメリカの統計学者J.M.グールドの傑出した仕事に触発されたと述べて、グールドの目の覚めるような仕事を紹介している。

アメリカで上のグラフと同様の統計がとられ、1950~89年の40年間にアメリカの白人女性の乳ガン死亡者が2倍になったことが分かった。その原因を求められてアメリカ政府は、膨大な統計資料を駆使した調査報告書を作成し
乳ガンの増加は、戦後の石油産業、化学産業などの発展による大気と水の汚染など、文明の進展に伴うやむを得ない現象である。
とした。
グールドは、この政府の統計処理に疑問を持ち、全米3053郡が保有していたその40年間の乳ガン死亡者数を使い、増加した郡と横這いか減少した郡とに分類して、郡ごとの動向を調べた。その結果わかったことは、けして全米一様に乳ガン死亡者が2倍になったのではなく、1319郡(43%)が増加し、1734郡(57%)では横這いか減少していたのである。つまり、明瞭に地域差があるということである。
しかも、グールドは増加している1319郡について、増加要因を探し、じつに乳ガン死亡率が、郡の所在地と原子炉の距離に相関していることを発見したのである。原子炉から100マイル(161㎞)以内にある郡では乳ガン死亡者数が増加し、以遠にある郡では、横這いか減少していたのである。(なお、原著からの直接の図が公開されていて、さらに、詳しい説明もついている。High Risk Counties Within 100 Miles of Nuclear Reactors 

アメリカの3053の郡のうち1319郡は原子力施設(原子力発電所と核兵器工場、核廃棄物貯蔵所)から100マイル以内に位置している。図の黒い部分。1985~89年のアメリカの乳ガン死亡者のうち3分の2はその郡の住民である。(前掲書p141より ただし、引用者の判断で脚注を修正した)


原子力施設から100マイル以上離れている地域では、おそらく、40年間の医療検診やガン治療の改善によって死亡者数は横這いか減少を示すという予想通りのことが起こっていた。ところが、原子力施設から100マイル以内では乳ガン死亡者が増加していたのである。これによって、原子力施設から乳ガンの原因物質が排出されているという蓋然性が大きいことが示されたということは出来よう。いうまでもなく、その「原因物質」は放射性物質である、といいたいところだが、状況証拠は濃厚にあっても、そのものズバリを示したわけではない。
重要なことは、これらの原子力施設でなにか事故が起こっていた、というのではないのである。そのことが、とりわけ重要なのだ。日常運転をしていて「原因物質」が周辺に出てきている、と考えざるを得ないのである。これは、かなり絶望的なことだ。

ここでふたたび、許容量という考え方が曲者であることを強調しておきたい。原子炉からは放射性物質の排出をゼロにおさえることは原理的に出来ない。放射性の希ガスは少量でも周辺に排出してしまう(放射性のキセノンとかネオンは気体でしかも化学的に捉まえられないので、どうしても環境に逃げてしまう)。日常的な作業でも、大量の排水のなかには、薄められた放射性物質が含まれている。それに対しては、十分に薄いので「許容量以下」で“健康被害を心配する必要はありません”というおなじみのセリフが出ることになる。操作ミスや重大事故で環境に放射性物質が散逸した場合でも、同じセリフが可能ならくり返される。つまり、ここのキーワードは濃度なのだ。
だが、どうやら上の図のグールドの研究は、許容量以下で日常運転しているのに原子炉周辺は乳ガンの危険性が高いということを示していることになりそうである。

外部被曝と内部被曝のちがいが許容量についても出てくる。内部被曝の場合は、いくら少量で弱い放射線源でも危ないのではないか、という考え方がありうる。体内にとりこまれ、体の特定の場所に濃縮して蓄積されるものがあるからである(ストロンチウムは骨に、ヨウソは甲状腺にというふうに)。つまり、内部被曝の許容量はゼロであるという考え方である。これはECRR(欧州放射線リスク委員会)が取っている立場である。それに対してICRP(国際放射線防護委員会)は許容量を設定しようとする立場である。後者は1928年の第2回国際放射線医学会総会で設置された委員会で、主流の考え方である。肥田は次のように述べている。
人類史上、最大の人体実験ともいわれる広島・長崎への原爆投下があっても、内部被曝そのものに関しては長い間、言及されることはなかった。近年、ようやく内部被曝の存在が注目され、国際放射線防護委員会(ICRP)の見解とヨーロッパの科学者グループ、欧州放射線リスク委員会(ECRP)が出した見解がはっきりと二つに分かれるようになった。前者は内部被曝も外部被爆と同様に許容量を定め、後者は内部被曝の許容量をゼロ以外は安全でないとしている。(p124)
ICRPはアメリカのエネルギー委員会の意向を受けて動いているのだが、もちろん、そう単純な話ではない。「ICRP1977年勧告」以来「放射線は合理的に達成できる限り低く」の考え方で、「同1990年勧告」はそれを踏襲している。「許容量」の問題は、原子力産業や放射線医学界などの意向とかかわる、政治的な思惑の錯綜する、素人にはよく分からない分野である。ICRPは新勧告を出そうとしており、「2006年勧告案」が示されているようだ。 「しきい値」のことや、LNT説(線形性でしきい値なしの仮説)のことなどは(7.4)で扱っているが、「許容量」や「リスク論」には踏みこんでいない。


(1.3) チェルノブイリ事故の影響

統計学者J.M.グールドがアメリカの女性の乳ガン死亡率が40年間で2倍になったことを説明するために前掲図に到達し、原子力施設が原因物質を出しているらしいという研究を出版・発表したのが1996年である。それに触発されて肥田舜太郎が作表した前掲グラフをみると1950年の1.7人から2000年の7.3人まで、4.3倍になっている(前掲書p115)。日本の方が、アメリカより明らかに乳ガン死亡率の増加が大きい(倍以上大きい)。
肥田はグールドと同じように、日本で原子力施設から100マイル(161㎞)の円を描いてみたそうである。すると、列島全体が多重の円で蔽われてしまうという。たぶん例外は沖縄と北海道東部ぐらいだろう。


上の地図はデフォルメされていて正確ではないが、感じはつかめるだろう。ようするに、グールドの考える100マイル基準で、“日本人はみな原子炉の近くに住んでいる”ということなのだ。ともかく、日本の乳ガン死亡率がアメリカの倍以上の割合で着実に増加してきたことは、グールドの100マイル基準の理論とよく合っているといえる。
次に紹介する「チェルノブイリの日本への影響」は、原子炉から出ている乳ガンの原因物質は放射性物質なんだ、と説得力を持って突きつける、もうひとつの実例である。

チェルノブイリの原子炉事故は1986年4月26日のことだった。21年前のことになる。定期点検中に或る実験が行われ、その最中に数秒の間に2回以上の大爆発がおこり、核燃料や原子炉材がこなごなになって吹き上がり、数千mに上がった放射性物質は、最終的には地球全域にひろがった。(チェルノブイリでは定期点検の機会を利用して、特別な実験をしてみようということだった。日本の原子炉の臨界隠し(北陸電力志賀原発1号機、1999年6月)も、定期点検中に弁の操作などをやっていて、起こったことだった。定期点検のときなど普段と違うことをしているのだが、事故はそういうときに起こりがちであることを示している。)

チェルノブイリ事故の日本への影響は、1週間以上経って現れている。つぎは、同年5月5日の朝日新聞(原子力安全研究グループのチェルノブイリ新聞切り抜き帖から)。
86/05/05 朝日 「日本各地で異常放射能
チェルノブイリ事故による放射能汚染が日本各地の広い範囲で確認された、と政府の放射能対策本部(本部長・河野洋平科学技術庁長官)が4日発表した。「放射能の強さは、ただちに健康へ影響を与えるものではない」としながらも、千葉市では、3日深夜から4日未明にかけて雨水1リットル当り1万3300ピコキュリーのヨウ素131の最高値を記録したのをはじめ、東京、神奈川、愛知、大阪、鳥取など15都府県で異常値を検出した。
日本の放射能対策本部が安全宣言を出したのは、6月6日のことで「5月4日に出した雨水を直接飲む場合は木炭等で漉す、野菜等は念のため十分洗浄してから食べる、などの注意呼びかけ」を解除した。
「チェルノブイリ新聞切り抜き帖」を見ていて、オヤ?と思ったのはつぎの記事。
86/07/02 朝日 「放射能汚染は東高西低
ソ連原発事故による放射能の汚染状況を、京大工学部原子核工学科、荻野晃也助手たちがまとめた。一定条件で採取した松葉のヨウ素131、セシウム137を測定したもので、北海道、中部など東日本が高く、瀬戸内沿岸や九州が低い「東高西低」傾向が明らかになった。松葉1kg当りの放射能量は、ヨウ素が、最低の長崎県で2600、最高の青森県で43200ピコキュリー、セシウムは220(鹿児島県)から13300(宮崎県)ピコキュリーだった。
チェルノブイリの「死の灰」は、ジェット気流などで運ばれるのだろうが、青森・岩手・秋田などの東北に強く影響がでたらしい。肥田前掲書は、秋田でのグラフを示している。


1950年以来のセシウム137の秋田での降下量の記録である(たて軸の単位が不明確。ミリキューリーだが、面積や時間の表示が必要)。米ソなどが盛んに大気圏内核実験を行っていた60年代までと、中国が行った70年代と、突出して86年のチェルノブイリ事故の場合がある。その後は急減している。
放射性物質が体内に入ってから乳ガンを発症し死に至るまでに平均して11~2年はかかるという。日本の都道府県別の経年の乳ガンの死亡率が12人(10万人あたり)を超えているのは、つぎの6県だけである。青森・岩手・秋田・山形・茨城・新潟。次図は、この6県だけをプロットした乳ガン死亡率の経年変化である(肥田前掲書p118)。


(1.2)の最初のグラフと比較してみると分かるが、死亡率が6人を超えるのは1994年あたりで、全国平均も上の6県もそこまでは似たようなものである。がぜん違うのはそのあとの数年間(1996,97,98)のピークである。その数年間だけ死亡率が急に倍以上の12人を超えている。これは、チェルノブイリ事故からちょうど10~12年であって、乳ガンの潜伏期間に相当していると考えられる。
これら6県に住む女性が不幸にもチェルノブイリからの濃厚な「死の灰」の通過地帯にあって、呼吸や水や農作物を介して放射性物質を体内に取り込んだと考えられる。その放射能は外部被曝の許容量からすると“なんら健康に影響はない”と言いうるようなものにすぎなくとも、内部被曝においては十分に乳ガンの原因物質になり得たということであろう。そう考えるのが、合理的である。

小論が乳ガン死亡率を取りあげているのは、肥田前掲書がそうしているからに過ぎず、原子炉やチェルノブイリの「死の灰」が特に乳ガンに悪い、ということではもちろんない。よく知られているように、小児の白血病や甲状腺ガンがチェルノブイリ周辺で急増して悲惨な様相を呈している(小児白血病については、(その7)で取りあげている)。

その乳ガンであるが、世界的にみれば罹患率のゆるやかな上昇が続く中で、乳ガン死亡率は1990年頃を境にして、それまでの一貫した上昇から一転して、確実かつ持続的な低下に向かっている。その理由としては、検診の普及と抗ガン剤の普及が考えらる。その世界的な趨勢にかかわらず日本では乳ガン死亡率が上昇を続け、2004年は16.1になっている。
次も、ヤフーの「ヘルスケア」からの情報です。ここ
日本における乳ガンは、年間に約4万人が発症し、女性の臓器別ガン罹患の第1位を占め、現在なお増加の一途にある怖い病気となっています。(中略)発症年齢は40歳代後半にピークがあり、閉経後には漸減します。この点、閉経後にも罹患率が漸増する欧米人との大きな違いがみられます。現在、乳ガンによる死亡者数は年間約1万人と推定され、女性のガン死亡原因では第3位を占めていますが、65歳以下女性に限ればガン死亡原因の第1位となっています。家庭での子育てや社会で働き盛りの女性を襲うことの多い乳ガンは、日本社会に深刻な影を落としています。
先に示したように、日本の乳ガン死亡率は上昇し続けている。アメリカでは元々は日本よりずっと高く20近かったが、1990年頃から下がって97年頃に日本の死亡率を下回った。アメリカは乳癌の発症率は依然として上昇しているが、死亡率は下がってきた。日本は発症率も死亡率も上昇している。なぜなのか。乳ガン検診の受診率を増やせば解決する問題なのか。どうも、そうは思えない。

乳ガンの原因として、サイトを眺め回ると、水道水・牛乳など経口の原因をあげるものがほとんどで、「近年日本における、和食軽視、食の欧米化が最大の原因と考えられていますが、 日本では乳ガンを発症する患者さんの絶対数が急速に増加しています」(良心的と思える、医師が発信している現在のガン治療の功罪から。)しかし、アメリカの乳ガン死亡率が下がりだしているのに、日本では増加を続けているという現実を前に、「食の欧米化」もないもんだ、と思う。「食の欧米化」が乳ガンの原因であることがたしかなことであるかのような言説がまかり通っているのは奇妙である。
グールドのアメリカの原子力施設近傍の例や、肥田舜太郎のチェルノブイリ事故の例は、放射性チリによる内部被曝が乳ガン死亡の原因(のひとつ)になっていることを根拠をあげて示していると思う。

1979年のスリーマイル島の原発事故のあとアメリカでは原発の発注が止まり、原発の危険性を訴える市民運動の高まりや原発による電力のコスト高も理由の一つとなって、天然ガスによる火力発電が中心になりつつあった。1990年頃からのアメリカでの乳ガン死亡率の減少が、このことを反映しているかどうかは不明である。ブッシュ政権後半になり、原発建設が再開される計画がもちあがってきていて、2008年に建設・運転の許可申請をすれば、30年ぶりの建設ということになるが、まだ、不確定である。



(1.4) アメリカの内部被曝を認めない態度

小論(1.1)の終りに、1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」は

被ばく者は死ぬべき者は全て死に、現在では病人は一人もいない。

というものであったということを、記しておいた。日本政府は、アメリカを頂点とする原子力体制(原水爆および原子力発電と、それらをまかなうウラニウム・ビジネスの国際巨大企業)に完全に包みこまれているので、たんにアメリカ政府の公式見解に追随しているにすぎない。問題は、なぜアメリカ政府が内部被曝を認めない態度をとりつづけるかということにある。

日本降伏後マッカーサーが厚木飛行場に着いたのが1945年8月30日だったが、その1週間後、ファーレル准将が9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表した声明は
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
というものであった(椎名麻紗枝『原爆犯罪』大月書店1985 p37)。ファーレルは米陸軍の「マンハッタン計画」(原爆製造計画の暗号名)の副責任者であり、原爆放射能の恐ろしさをよく承知していた人物である。
「マンハッタン計画」の責任者レベルの者たちは、物理学者たちからの情報で原子爆弾とは別に「放射能兵器」がありうることをよく知っていた。(この問題については、「(3.1)放射能物質のバリケード計画」で具体的に触れる。

この問題に入る前に、まず、「内部被曝」の症状は個々のひとりひとりの人間について簡単に実証できないこと、この症状は“疫学的な対象”であること、について説明しておかないといけない。この点の理解が十分でないと、単にアメリカ政府や日本政府が「有ることを無いといって欺している」という浅い理解になってしまう。そして、感情的な反発になってしまいがちである。

最も日常的に定常的に運転されている原発を考えてみよう。
原発はウラン燃料を“燃やして”熱を取りだして、その熱で発電機を回して電気を得ている。ウラン燃料を“燃やす”というのはヒユ的表現で、実際には核分裂が起こっていて、原子核内部のエネルギーが「熱」として現れている。つまり、核分裂の“核”というのは“原子核”のことで、ウランの原子核が幾つかに分裂するのである。その結果できる新たな原子核(もとの核の半分程度の重さになっている)が多くの場合不安定で、放射線を出してより安定な原子核に変化していく。つまり、もともとはウランという重い金属元素一種だったものが、核分裂の反応が起こると極めて多種の元素(200種類を超える同位元素)が原子炉内部にできてくる。それはヒユ的に言えば“燃えかす”であり“灰”である。(誤解のないように付け足しておくが、核分裂の反応がおこることと放射性廃棄物(“灰”)が生じることは同じことを異なる角度から言い表しているのであって、“燃えかす”がでないような原子炉などというものはあり得ないのである。原子炉を運転すれば必然的に放射性廃棄物が生じるのである。)それが恐ろしい放射能をもっているので、それを“死の灰”と言いならわしているのである。公的には(お役所語では)「放射性廃棄物」である。

原子炉は炉内に生成されてくる放射性物質を閉じこめるために、何重もの蓋があって簡単に放射性物質が外部に出てこないように工夫がなされている。ところが、チェルノブイリ事故のような爆発が起こらない、軽微な破損や操作ミスさえもない、ごく定常的な運転が理想的に行われている状態であっても、この「放射性廃棄物」の一部はどうしても原子炉外部へ出て行かざるを得ない。つかまえるのが難しい元素、クリプトン85(Kr85 半減期10.8年)がその代表的なものである。これは気体として環境に放出され、希ガスなので化合物を作らず(だからつかまえようがない)、しかも、重たいので地表へ沈降してくる点も厄介である。原子力資料情報室のデータ、1988年までしかない古いデータだが、大気中のクリプトン85の濃度が確実に上昇していることは確かめられる。なお、放射性クリプトンは天然には宇宙線によって作られるぐらいでほとんどは核実験と核施設から生じたものである。(したがって、下のグラフは最初はゼロから出発したと考えてよい。中国の核実験も終わった80年代以降の上昇分は、核施設からの排出によるものである。半減期10.8年だから核施設を全部停止すれば、徐々に減少に向かう。


縦軸のピコキューリー(pCi)は確かに小さいが(ピコは10-12)、大気中へ拡散して放出されているのである。ゆえに「安全基準」からすると、“健康に影響はありません”ということになるのである。特にクリプトンは生体を構成する元素ではないので、吸収されて蓄積・濃縮といことはないだろうと考えられている。だが、肺に吸着したり血液に滲透したりして、放射線を出すから、安全とは言えない。

原発に必須の多量の排水の中に水溶性の放射性物質が混入せざるを得ない(トリチウム(三重水素)や炭素14などが心配される)。混入は、原理的にゼロにはできない。なぜなら、化学的にせよ物理的にせよ、放射性物質(廃棄物)をトラップをかけてつかまえるのであるが、完璧に全部の粒子(原子や分子)をつかまえることはできない。ミクロな領域では必ず拡散の法則にしたがって環境へ逃げだす粒子が存在するのである。それをゼロにすることはできない。
これは、理論的に理想的な設計通りの運転が行われている場合のことである。チェック不可能なほどの軽微なヒビや部材の間のユルミ、まして操作ミスや運転ミスなどがあれば、環境へ逃げだす粒子(原子や分子)の数がたちまち何桁か上昇する。それでも「安全基準」からすると問題にならない程度の小さなものである場合が普通である。したがって、原発や官庁が事故の後すぐ“健康に問題有りません”というのは、マニアルどおりにアナウンスしているのであって、ウソをついているのではない。だからこそ問題の根が深いのだ。
では、マニアルに問題があるのか、ということになる。それはある意味では、その通りである。ICRP勧告などを基準にして公的なマニアルが作られるのだから、「内部被曝」が正当に扱われていなかったりしているのである。

もう一度言おう。すべての原子力施設からは、最低でも「安全基準」以下の放射性物質が環境に絶えず放出されている。原子力施設につきものの巨大なエントツと排水口から、排気と排水によって、放射性物質が環境に絶えず放出されている。ここでのキーワードは安全基準である。
自然環境にはもともと存在している放射能がある(もちろん、これは本当です)。通常の土壌や岩石にはウラニウムなど自然放射性元素が極微ながら含まれているから、山に行けば自然の放射能レベルが上がる。宇宙からは宇宙線が絶えず降り注いでいて、大気と反応して様々な放射性物質をつくる(例えば炭素14)。それらの自然放射能のレベルよりも低くなるように「安全基準」を定めています、というのが決まり文句である。ここには、ウソはない。しかし、すべての原子力施設からは、放射性物質が環境に絶えず放出されているということも事実である。

次の例は、建設中の青森県六ヶ所村の「再処理工場」である。
◆国や事業者、青森県は【再処理工場から出る放射性物質は、できるだけ取り除き】としていますが、クリプトン85の例にあるように、技術的に除去可能な放射能の除去を日本原燃は怠っています。また国もそれを認めています。気体廃棄物としては、放射性クリプトン85が33京ベクレル、トリチウム(三重水素:放射能の水素)は1900兆ベクレル、放射性炭素14が52兆ベクレル、放射性ヨウ素が280億ベクレルなどです。これらの放射能は、高さ約150mの排気塔から排風機を使って時速約70㎞の速さで大気中に放出されます。

◆同様に廃液として海に捨てられる放射能は、トリチウムが1.8京ベクレル、ヨウ素2130億ベクレルなどです。六ヶ所村の沖合3㎞、水深44mに設置された海洋放水管の放出口からポンプを使って時速約20㎞で放出され、十分に希釈されるのでこれも安全性に問題はないというのです。
情報元は、先のクリプトンの表と同じ「原子力資料情報室」の資料、ここ。大気中、海水中へ放射性物質を早く広くひろがらせて薄めたい、という再処理工場側の思惑がよくあらわれている。

電力会社や原子力施設側が「安全基準」を、本当に守っているかどうか、これは一般市民には確かめようがない。モニターをつくって監視したりすることは意味があるが、根本は原子力施設を運転している側が、全面的に情報をオープンしているかどうかである。放射能は五感によって感覚できない。だからこそ原子力施設にはとりわけ信頼性が求められるのである。この観点からも、日本の電力会社の隠蔽体質がいかに致命的なものであるか、われわれは昨年来(2006~)の電力各社の呆れ返った不祥事の暴露からよく学んだだろうか。それに対する国の処分がまたまた呆れ返った軽さであったことから、われわれは何を学んだだろうか。



放射能(放射線を出す性質)は、原子核がもっている性質である。元素(ヨウ素とか炭素とかストロンチウムとかウランとかの)のそれぞれの特徴・性質(化学的性質)をきめているのは、原子核ではなくその周辺にある電子である。
一例を挙げよう。ヨウ素127は自然界にあるヨウ素で甲状腺ホルモンを造るために必要なので、人間にとって必須元素である。ヨウ素131は半減期8日ほどの放射性同位元素であるが、これが体内にはいると、生体はヨウ素127と区別できず、まったく同じ扱いをする。それゆえ、放射性のヨウ素131は正常なヨウ素とともに甲状腺に集まってくる。その結果、甲状腺が集中的に放射線で照射されることになり、甲状腺ガンの原因になる。

つまり、放射性物質を生物体内に取り込んだ場合、その物質粒子(原子や分子)はその生理的性質にしたがって体内の特定の場所へ溜まる(ストロンチウム90は骨へ、ヨウソ131は甲状腺へ、カリウム42やセシウム137は筋肉へ、胎児は“小さな総合”であるからほとんど全ての元素がごく狭い領域へ集中する)。環境の中では広く薄く分布していた放射性物質が生物体内では特定部位に集まってくるので濃縮されることになる。これは、生物が自然界の物質を材料にして自分の身体を作り上げるという根源的な能力によって生じる働きである。だから、とどめることはできない。
人間は、呼吸し水を飲み、食物を食べる。海草や野菜、魚や肉や牛乳を口にすることによって、濃縮の濃縮が起こる。特に胎児には多様な元素が必要であるから、体内に入った放射性物質の多様な元素が集まってくる。小さな胎児のなかに形成されつつある更に小さな甲状腺にヨウ素131が集中する、という具合に。したがって、胎児は放射能に成人よりずっと敏感である。たとえば初期胎児が成人の100分の1のサイズだとすれば、体積(重量)はその3乗で百万分の1だから、百万倍敏感なのである。妊娠初期ほど警戒が必要である。
妊娠2ヵ月目の人間の胎児の重さは0.1グラムで、母親の体重の60万分の1くらいである。母親の浴びた放射線は、胎内の胎児に法外な影響を与えてしまう。(『被曝国アメリカ』p403)


体内に取り込まれた放射性物質は、その半減期にしたがって原子核崩壊が起こり放射線を出す。既述のように、外部被曝では問題にならないアルファ線でも、内部被曝で細胞を構成する元素から放射されれば話は別である。その近傍にある細胞器官を破壊したり活性酸素を作ったりする。DNAを変化させることもありうる。ガン細胞をつくりだすことも、あり得る。
このようにして、チェルノブイリの近くだけでなく、数百㎞以上はなれたヨーロッパでも、甲状腺ガンや白血病の子供が増加したりする。何千キロも離れた日本でさえ、10年以上経ってから乳ガン死亡率が増加するということが起こっている。

これが内部被曝の恐ろしさである。「安全基準」以下の排気や排水であっても、長期にわたって広汎に調べると、原子力施設の周辺ではガンの発症が多くなっている、ということがわかる。逆に言うと、そういう調べ方(疫学的調査=多人数・長期間の調査)をしないと、犯人は原子力施設にある、ということに気づかない。このように調査した後でも、ある特定のガン患者が内部被曝によってガンを発症した、ということは直接的に証明することはむずかしい。なぜなら、ガンの原因は自動車の排気ガスだったり、食品添加物だったり、残留農薬だったり、さらに遺伝的要素も重要だったりするからである。
さきに、内部被曝による発症は“疫学的な対象”であると述べておいたのは、こういうことである。

広瀬隆『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(新潮文庫 1989)に、とても分かりやすい説得力のある例があがっている。アメリカのネバダ砂漠が核実験場として使われはじめたのは1951年からだが、そこから250㎞も東にはなれたユタ州ビーバー郡の小学校の女先生、メリー・ルー・メリングという方が、自分の周辺で白血病や各種のさまざまなガンで死ぬ人が増えてきて、おかしいと感じて記録を取り始めた。それが53年からである。この先生は79年までの27年間、こつこつと記録を取って残した。広瀬隆は次のように述べている。
このリストは白血病だけでなく、・・・・ちょっとこの紙一枚ずつの見出しを読んでいきます(その見出しの下に死者のリストがズラリと並んでいる)。前立腺ガン、結腸ガン、リンパ系のガン、リンパ肉腫、脳腫瘍、肺ガン、皮膚ガン、肝臓ガン、子宮ガン、卵巣ガン。こういう形でありとあらゆるガンがたくさん発生しました。甲状腺の障害は、ほぼ10年後から12年後にピークを迎えている。(p108)
このメリング先生は、たくさんの流産と重度の障害のある新生児(多くはすぐ死んだ)についてはリストに載せていないと、断っている。
広瀬隆は「時限爆弾」という表現をとっているが、内部被曝がはじまってもそれがガンに発症するまで何年もかかる。甲状腺のばあいは10~12年かかるという。いずれにせよ、メリング先生のような調査がないと、個々のガン患者の苦しみと悲しみがあっても、それがネバダ砂漠の核実験に原因があるらしい、というふうには結びつかないのである。アメリカにはメリング先生以外に多数の調査レポートがあるのだそうだ。

ネバダ砂漠の核実験場では、1951年から92年までの間に、計925回の核実験が行われ、大気圏内核実験が禁止される1962年まで100回の実験があった。地下核実験は825回行われたが、地下実験でも少なくない放射性物質が大気内へ放出されたことが分かっている。
この核実験場の南にはラスベガスがあり、西にはロサンゼルス(350㎞)やサンフランシスコ(600㎞)など大都会があるため、実験はつねに西風の日を選んで行われ、メリング先生たちユタ州側が風下となった(Downwind People 風下住民という語ができたそうだ)。ひどい話だが、風下住民はモルモット扱されたわけである。いいかえれば、実験をする者たちは、“死の灰”が有害であることを重々承知の上で、実験を行っていたのである。

人体実験消えぬ疑惑(朝日新聞、1998年1月20日)は、ネバダの風下住民よりもっとひどい扱いをされたのが、1954年のビキ二核実験による放射性降下物で被ばくした南太平洋マーシャル諸島の住民らであるという特集なのだが、ここでは、ネバダの扱いのみを引用させてもらう。
アメリカ国内では、88年にネバダ実験に参加し、被ばくした軍人らへの健康補償法を制定したのに続き、90年にいわゆる「風下法」(被ばく補償法)を制定し、ネバダ実験場の風下にあたるネバダ、ユタ、アリゾナ州の当時の住民らも補償の対象に含めてきた。

昨年、米国立がん研究所は、ネバダ核実験で大気中に放出された放射性のヨウ素131の過剰摂取などから、当時15歳以下の子どもを中心に推定1万人から7万5千人が甲状腺ガンになった可能性がある、と発表した。
どういう論理で「健康補償法」や「風下法」を米政府が作ったのかよく分からないが、個別の症例に対する“補償”は認めざるを得ない状況になってきているのは間違いない。だが、その“補償”そのものが被ばく者に犯罪的な屈服を強いるものになっていることは確かのようだ。(一例として、「原水禁2001年世界大会」に寄せた「放射線被害者支援教育の会/ユタ州ネバダ核実験場風下地区住民」のデニース・ネルソンのアッピール文がネット上で読めることを記しておく。その中には、つぎのような一文がある。
被害者が補償を受けるのには、米国政府の責任と、今後司法手続きには訴えないとする書類に署名しなければなりません。ですから、おおくの被害者は、補償金を「血で汚れた金」と呼んで、補償の申請を拒否しています。政府が、被害をあたえた者を訴える権利を被害者から奪うのは正当ではないと考えるからです。
また、自尊心や愛国心も、金銭のために申請をおこなうのことの妨げとなっています。被爆が原因のガンで若くして死にかけていても、政府は国民を傷つけるようなことはしない、といまだにおおくの人が信じています。
ガンの原因と軍や原子力委員会との関連を明確に認めたり結びつけたりしないために、補償法はあいまいな言い回しを使っています。真の容疑者や冷戦の犯罪者、これに関連する医学実験が言及されていないため、補償法は、身体への影響を秘密にし、真実を覆い隠し続け、政府の残酷な行為が永久に暴露されないようにするまた別の努力のように見えます。
デニース・ネルソンは「20万人以上の被爆兵士、少なくとも2万人の風下住民、数千人のウラン鉱山労働者、そのほかおおくのネバダ実験場労働者がいます」と述べている。被ばく兵士というのは、アトミック・ソルジャーと言われる実験場に動員されていた兵士たちのことである。その数の多さに驚く。劣化ウラン弾の被害にあっている湾岸戦争-イラク戦争の兵士たちの“先輩”というわけだ。
)

核実験のそもそもの第1号は、1945年7月16日のニューメキシコ州アラモゴードのマンハッタン計画による、人類最初の原爆実験である(この時の精彩あるレポートは「実験について」というグローブス将軍が書き、トルーマン大統領と共にポツダムに行っていたスチムソン陸軍長官へ緊急飛行機で報告されたもの。その中にはファーレル准将のレポートも引用されている。一読の価値がある)。
46年からはビキニ環礁、エニウェトク環礁での実験がはじまり、これは58年まで行われる。ネバダでの核実験は、前述のように、51年からはじまった(その他アラスカなどでも行われた)。いずれの実験でも、兵士が“核兵器を体験する”という目的で関わっており、核実験の危険性などをまったく教えないまま、無神経とおもえるほどの無防備さで立ち会わせている。わたしは「彼らは実験動物として使われた」と言ってかまわないと思う。そのために、十万人単位で数える兵士に後遺症が出た。

広瀬隆は前掲書で、次のように述べ、被曝(外部被曝、内部被曝)が疫学的対象であることを分かりやすく示している。
アメリカのアトミック・ソルジャーの場合、全米で25万人あるいは30万人という莫大な数の被バク者を出し、これほど大変な問題を起こしながら、どれぐらいかかって分かったかと言いますと、実にこの1980年代になってようやく社会問題になったのです。ということは、この核実験がスタートしたのが1946年ですから、実に40年近くかかってようやく社会問題になった。(p93)
なぜ、こんなに時間がかかったか。それは、兵隊帰りの誰それがガンになった、というだけではけして社会問題にはならないからだ。
アトミック・ソルジャーたちは核実験場に狩り集められ、核実験でボンと火の玉があがる場面に立ち合ったあと、みんな自分の故郷へ帰ったのです。ある人はペンシルバニア州へ、ある人はワシントン州へ、ある人はフロリダ州へ。ある日、ある人は白血病に襲われました、2年後か3年後に。ある人は10年後に甲状腺障害で倒れ、ある人は30年後に両脚を切断したのです。こうしてみんな自分の故郷でそれぞればらばらに症状が出たものですから、全然分からなかったのです。(中略)
ところが私たちも同窓会というものをやりますね。そのような形で軍人のOB会というのがありまして、全米から集まって来て話をしているうちに「俺もガンになってしまった」、「お前のところの子どももそうか」、「あいつも死んだのか」ということで、歯が抜けるようにひとりずつ消えていく。だんだんおそろしいことが分かってきて、さきほどのアトミック・ソルジャーの被バク者協会という集まりができ、夫を失った未亡人たちがニュースレターを交換し合うなかで、調べてみたところようやくこのような戦慄すべき数字が浮かびあがってきたというのが現在の状態です。(p94)
もう一度言っておく。被曝(外部被曝、内部被曝)がガンとして発症する可能性は大いにあるが、それはあくまで疫学的対象であるのだ。だから、あるガンの原因が、何年も前の・何十年も前の被曝であると直接的に実証することはほとんど不可能なのだ。

自分の周辺のガンで死んだ者を思い出したらいい。
俺と同年の彼は、長年ヨーロッパにいたからチェルノブイリの死の灰を受けたかも知れない。いやそれどころか、東欧へ取材に出かけたかも知れない。末期ガンになっても最後まで自分のことじゃないように、ふるまっていた。いまとなっては彼のガンの原因が何なのか、永遠に分からない。

もっと若い親戚の男を昨年ガンでなくした。システム工学を商品販売の現場で実践していた男で、その分野では先端的な人物として尊敬されていたことを、葬儀ではじめて知った。会社の定期健康診断で、末期の膵臓ガンであることが発見されたのだそうだ。入院せず、最後まで家族と一緒に過ごして、死んだ。それを受けとめた奥さんが立派だった。でも、彼のガンの理由は遺伝的なものなのか、食べ物なのか、それとも放射性物質なのか。まったく、分かりようがない。
特別な状況がない限り、ガンで死んだ者を解剖しようが物質分析しようが、そのガンの原因を突き止めることはできない。ガンの最初は、ただ一個のガン細胞からはじまるのである。


この節(1.4)の初めに、次のように述べておいた。
1968年に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」は

被ばく者は死ぬべき者は全て死に、現在では病人は一人もいない。

というものであった。日本政府は、アメリカを頂点とする原子力体制に完全に包みこまれているので、たんにアメリカ政府の公式見解に追随しているにすぎない。問題は、なぜアメリカ政府が内部被曝を認めない態度をとりつづけるかということにある。

日本降伏後マッカーサーがコーン・パイプをくわえて厚木飛行場に着いたのが1945年8月30日だったが、その1週間後、ファーレル准将が年9月6日に東京帝国ホテルで、連合国の海外特派員に向けて発表した声明は
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
というものであった。



「内部被曝」について (その1)  終わり



























「内部被曝」について  (その2)アメリカの「内部被曝」を認めない態度(続)

放射線の発見
最初の原爆実験
プルトニウム汚染


「内部被曝」について (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8) 目次 へ





(2.1) 放射線の発見

放射線の発見の歴史を確認しておく。

X線は1895年にレントゲン(ヴィルヘルム.C)によって発見された。写真乾板を感光させる不思議な“線”であったが、骨格を透視して撮影できることが衝撃的にアッピールした。いまウイキペディアにある透過写真はレントゲン夫人の手で指輪も写っている有名なもの。エジソンは、さっそく1896年5月のニューヨーク電気博覧会に「X線蛍光透視装置」を出品して人気を博した。だが、のちにエジソンと共にGE(ジェネラル・エレクトリック)を造るイライヒュー・トムソン(Elihu Thomson)は、すでに1896年にX線の害について論文を書いている。
X線は、人間の肉体を破壊する能力を持っている。しかもその破壊能力は、X線の被曝量と正確に比例する関係を持っており、X線そのものの強さは、線源からの距離の2乗に反比例する。したがって、近くになるほど危険度は加速度的に高まってゆく。さらに、ある限界の被曝量を超えると、肉体における破壊がきわめて深刻で顕著なものになるが、このような生物学的な影響は、被曝した直後には明確なものではなく、ある潜伏期間を経て現れてくる。(アルバカーキー・トリュビューン編『プルトニウム人体実験』小学館1994の広瀬隆の解説p99)
トムソンは自分の小指を使って実験したという。なお、このイライヒュー・トムソンは三相交流の発明など優れた発明が多数ある人物。ところが、この明確な警告にもかかわらず、エジソンの助手ダリーはX線装置を使いすぎて1905年に放射線障害で死亡している。エジソンはその後X線分野から手を引いた。

X線が細胞を破壊する力を持っていることは、見方を変えれば、ガン細胞を攻撃することができるということである。照射の容易な皮膚ガンなどに試してみて効果がある場合もあることが確かめられた。X線のガン治療への応用がさまざまに試みられた。

ウランは古くから知られており、陶器の着色剤として瀝青ウラン鉱の採掘がすくなくとも16世紀には行われていた。元素として確定したのは1789年のこと。“ウランガラス”の製造は1850年頃からイギリスではじまった(ガラスにウランを混ぜると、不思議な蛍光を発するので喜ばれた。放射線のためであることはまだ知られていなかった。いまでもマニアがいる)。
ウラン鉱夫に職業病として肺ガンがあることは、かなり前から知られていた。ウランの放射性崩壊で発生するラドンガスがウラン鉱石に含まれており、坑道には高い濃度のラドンガスが立ちこめている。ラドンの半減期は短く(同位体によって異なるが、最長で3.8日)肺に吸いこまれて、ポロニウム・ビスマスなど“ラドンの娘”といわれる放射性重金属に転換する。それらが肺でアルファ線を出し続けるのである。
1870年代には、健康調査の草分け的な専門家たちが、この病気は肺癌であると見極めていた。アルシュタインという当時の疫学者が書き残した物によると、チェコのウラン鉱夫の癌による死亡率は40パーセントであった。1939年には、ペラーという研究者が、彼ら鉱夫の肺癌による死亡率は、照準にされたウィーンの一般市民の場合より20倍高い、と報告している。また、イギリスのJ.A.キャンベルは、ウラン鉱山の塵芥にさらされたマウスには、通常の10倍の高率で、肺腫瘍ができることを発見した。(『被曝国アメリカ』p229)
パスツールもウラン鉱石と発ガン性の関係を指摘しているという(前掲『プルトニウム人体実験』p99)。ウランが放射性であることが分かったのは1896年である。いずれにせよ、ウラン鉱山での作業は体内被曝をひきおこし、肺ガンとなる可能性が高いことは、19世紀には専門家には知られており、20世紀前半段階で確定していたといってよい。陶器・宝飾への使用や健康医療への応用程度のウラン利用から、マンハッタン計画はまったく質的に異なる世界的なウラン需要をつくりだした。アメリカの軍事産業と金融資本が結びついて世界中のウラン鉱山を買い占め、ウラン独占を計画した。たとえば、アメリカ国内では西部のアメリカ原住民(インディアン)の土地のウラン鉱山で、原住民が鉱夫として働いたのであるが、肺ガンによる死者を多数出した。原子力委員会の反対にあって、長い間ラドン被曝に対する何の手も打たれなかったからである。「ラドン・ガス・レベルの連邦基準法」が不十分なものながらともかく成立したのが1971年であるが、それさえ守られない状態がつづいた(『被曝国アメリカ』p230~235)。(ウラン鉱山での被曝に関しては、河井智康『原爆開発における人体実験の実相』新日本出版社2003の「第5話 ウラン工夫の被爆体験調査」が詳しい)

ウラン自体は半減期が長く(U238が45億年、U235が7億年)放射能は比較的弱い。しかもα線を出すから空気中での被曝(外部被爆)はあまり問題にならない。むしろ、天然ウラン鉱石には崩壊系列のラジウムやラドンを含むことが問題である(ラジウムは放射能が強いこと、ラドンは気体で吸入しやすい)。ただし、体内にとりこむと深刻な影響がありうる。劣化ウランは核廃棄物であり有害な放射性同位元素を微量ながら多様に含むこと、弾丸として使用すると蒸発・飛散して吸入しやすいことなど危険性が増す。後に劣化ウラン弾を扱うときに詳論しよう。

キューリー夫妻がウラン鉱石の残滓に存在する放射性物質を求めて新元素ポロニウムおよびラジウムを発見したのが、1898年のことであった。ラジウムはウラニウムより放射能が強く(百万倍強い、α線)、医療用の応用が期待された。キューリー夫人は発見後直ちに自分の肌に貼り付けて、X線照射の場合と同様に皮膚が赤くなったのを確かめている。X線のような装置が不用なので、子宮ガンなどに使われて、注目された。ラジウムは医療用に需要が高く、しかも、ピッチブレンド鉱石4トンから1グラムがとれるという稀少さからきわめて高価なものであった。
核分裂が発見されるまでは、放射性物質は医療的な価値で注目されていたのである。ヨーロッパにおいても温泉水を飲用する療法は昔からあったが、トムソン(J.J.Thomson)が温泉でラドンを発見すると(1903年)、ラドンが 温泉水の効用の原因物質であるという説がひろがり、「ラドン水」が売り出され人気になった。
次の引用は、舘野之男「人類にとってラジウム放射能とは? 」から。
ラドン水の効用に一応の成果が固まると,ラドンの半減期(3.8日)が短いことが短所とみなされ,もっと長期間効果を持続させるものとして,ラドンの親核種ラジウム(半減期1602年)が使われるようになった。ラジウムからは絶え間なくラドンが生成されるので,1回のラジウム服用ないし注射で,何回もラドン水を飲むのと同じ効果を得ようというわけである。当時の広告によると,飲用液は2μgのラジウムを含む60mlの水溶液であり,静注用液は2mlのアンプルに入ったラジウム量5~100μgまでの5段階の濃度のものが市販されている。
ラドン水やラジウム内用療法は,慢性の関節疾患や筋肉疾患,高血圧,腎炎,貧血などに効くと考えられていた。ラジウム内用療法は,1920年代半ばから骨髄性白血病に使われるようになった。これは白血球を減らすという点で目に見える効果があったので,専門家の間でもかなり一般化した。
ラジウムの危険性が広く認識されたのは、時計の文字盤にラジウムを塗る若い女工さんたちに“ラジウム顎”と医師に呼ばれた奇病が発生した事件からである。ニュージャージー州オレンジに最大の工場(女工800人)があり、貧血・口腔の出血・口蓋や喉の崩れ・全身の骨折や挫傷など、死者もでるようになった。これが、1920年代半ばのこと。
読むだけで恐ろしくなる話であるが、“放射能医療”の連想なのか日本では“ラジウム温泉”や“ラジウム岩盤浴”などに現在も人気がある。“ラドン温泉”と共に、危険なげてものである。
キュリー夫人(Maria S.Curie 1867-1934)は、白血病で死んでいる。今でこそ、X線や放射能はまず恐ろしいという印象であるが、19世紀末から20世紀の30年頃までは、“体に力をつける不思議な万能薬”というとらえ方が普通だった。マリー・キュリーはその代表的な人物である。娘イレーヌも夫フレデリック・ジョリオ=キュリーと共に2代にわたって夫婦でノーベル賞を受けている高名な研究者であるが、放射線に対して無防備で、イレーヌもフレデリックも放射線障害で死亡している(それぞれ1956,58年没)。
キュリー家の夫婦2世代は伝記で見る限り、放射線障害に対する恐れが念頭をよぎることもなかったようである。X線機器を積んだ自動車で野戦病院を廻っていたとき、X線技師が不足していることに困ったマリーはラジウム研究所において女性技師を養成しようとするが、そのうちの1人の女子学生が放射線が怖いので「辞めたい」と申し出る。この時、マリーはそのような愚かな言動を怒ったことが記録されている。(マルチーヌ・ドギオーム『核廃棄物は人と共存できるか』緑風出版2001 桜井醇児訳の訳注p51)
サイクロトロンの発明者E.O.ローレンスの逸話で、資金を集める講演会で放射能の研究の重要性をアッピールする目的で、会場にいたオッペンハイマーに放射性ナトリウムを一口飲ませ、手の先にカウンターを当てておくと50秒ぐらいでガリガリいいだす、という実験をしている(『プルトニウム・ファイル』上p14。『被曝国アメリカ』p238にも類似の逸話が出ている)。胃で吸収されて血液循環に入って50秒で手の先まで来ることが分かるということだ。放射性ナトリウム(24Na)の半減期は15時間ほどだから放射性のトレーサとして使えるのだが、リスクがないわけではない。人体実験で有名なハミルトンは、学生の前で放射性ヨウ素を飲んでみせ、カウンターを喉に当ててガリガリいいだすのを聞かせたという。ハミルトンは49歳で死亡した。

このような奇矯な振る舞いをする学者が皆無ではなかったが、しかし、19世紀末に発見された目に見えないが強力な作用をもつ“放射線”が人体に有害な生理作用を及ぼすことは、いまや誰にとっても常識である。放射線の電磁遊離作用によって細胞が破壊されるという観点は物理学者にとっては、原理的で必然的な理解である。ガンに対する医療的応用はその危険な生理作用を逆手に取った応用である。


(2.2) 最初の原爆実験

放射線の発見があいついだ19世紀末から40年後、核分裂の最初の実験がベルリンのカイザー・ウイルヘルム研究所で1938年秋に行われた。第2次大戦直前のアメリカに、ヨーロッパから亡命した物理学を中心とした“世界の頭脳”が集まって、物質の究極の姿を解明すべく努力が重ねられていた。ところが、その物質の究極の探求が、同時に原子核のエネルギーを取りだす可能性を追及することに収束していった。

核エネルギーの解放の可能性が、がぜん現実性を帯びてきたのは、1939年3月に、シラードとフェルミがウランの核分裂で中性子数が増加する現象を発見したことによる。この現象を人工的につくり出せば、連鎖反応が生じて、人類はこれまでまったく知られていなかった巨大なエネルギー源を手にすることができる。また原子爆弾の可能性が出てきた。
ナチス支配下のドイツでも同じ原理によって、核エネルギーの解放が探求されていると考えられた。というよりむしろ、アメリカに集まった学者たちはドイツの方が先行しているという恐怖の念に突き動かされて、しゃにむに働いたのである。

このシラードらの発見を受けて、有名なアインシュタインのルーズベルト大統領宛の書簡が1939年8月2日に書かれる。シラードが書いてアインシュタインは署名しただけであったという。(シラードはハンガリーからアメリカへ亡命した人物。物理学者として一流であるが、政治活動などにも関心がありやや毛色の変わった人物だったようだ。次はウイキペディアからの引用。「シラードは科学のみならず世界情勢に関しても人よりも先を見通すことに長けていた。 研究成果を論文の形で発表するよりも特許を申請することを好み、原子炉を始めとする多くの先進的なアイデアが特許の形で残されている。 また、科学者を組織し、様々なロビイスト活動を行った。 亡命後はスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば一日中、湯舟に浸かって思索するのを好んだ。」)
また、大統領への仲立ちをしたのは、アレギザンダー・ザックス(1850年創業の投資銀行リーマン・ブラザーズの副社長)であった。つまり、アインシュタイン書簡は、はじめからロスチャイルド系財閥が背景にひかえている野望漫々の軍事投資に利用されたのである。ウラン鉱石の世界的な市場を展望することなどは、普通の物理学者のできることではない。勘どころを見ておこう。
最近4ヵ月の間に、米国のフェルミやシラードだけでなくフランスのジョリオ[=キューリー]の研究によっても、次のことが有望になりました。すなわち、大量のウランの中で核連鎖反応を発生させることが可能であり、それによって巨大なエネルギーとラジウムに似た新元素が大量につくられるという可能性です。近い将来にこれを実現できるのは、まず確実であると見られます。

はじめて発見されたこの現象は、結果として爆弾の製造にもつながります。それほど確実ではありませんが、これによってきわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます。

米国にはきわめて質の悪いウラン鉱石が多少あるにすぎません。カナダとかってのチェコスロヴァキアには良質のウラン鉱石が多少ありますが、しかし、最も重要なウラン産出地はベルギー領コンゴです。(中略)米国が必要とするウラン鉱石の供給確保の問題に格別の注意を払う。(中略)ドイツは、同国が接収したチェコスロヴァキアの鉱山から産出するウランの販売を実際に停止したものと思います。(『資料マンハッタン計画』大月書房1993 p4)
この書簡には放射能の危険性には触れられていないが、書簡とともに大統領に渡ったシラードのメモには、次のように、放射性物質からの「防護」が必要であることが述べられている。
放射性元素は、一定期間継続してエネルギーを放出する。単位重量あたりの放出エネルギー量はきわめて大きく、したがって、そのような元素は、船舶または航空機の動力燃料として-大量利用が可能になれば-使用することができるであろう。しかし、この新しい放射性元素によって放出される放射線の生理学的作用のために、その元素が大量に存在する場所の近くにいなければならない人、例えば航空機の操縦士については、防護する必要があることを指摘しておかなければならない。(『資料マンハッタン計画』p6 なお「資料解題」p2にはこのメモの性格が説明してあり、1939年8月15日に作成され、ザックスがアインシュタイン書簡を補う資料数点のひとつとして大統領に手渡したことが分かる。)
つまり、原子炉も原爆もまだ何も実現していない段階であっても(シラードら指導的学者においては)放射性物質による害毒の放出は十分意識されていた。このことは疑いない。

マンハッタン計画が正式にスタートするのが1942年8月17日である。
同年12月2日に、人口密集地のシカゴ大学のテニスコートにつくられたフェルミが指導する黒鉛炉で、臨界が確認された。高純度の黒鉛レンガを積み上げ、ウラン(精製された天然ウラン)をその間に挟み込んでいた。500トンの黒鉛のブロックと、50トンのウラニウム。これらは、みな、物理学者らが真っ黒になって人力で自ら積み上げたものである。ニックネームは“パイル”(薪積み)だった。
白黒の写真が残っているが、レンガ積みの実験炉の上に乗って、万一の場合に備えてカドミウム溶液の入ったバケツを持った3名の人物(物理学者)がいるし、炉をごく間近に(5,6m)みる位置に多数の学者がいる。こういう体勢でかなりの被ばくがあったと思われるが、それの防護の配慮は写真からはうかがえない。人類初めての原子炉の“点火”の一瞬を待つ気持ちがすべてを支配していたのであろう。
中性子の量を計測しつつ、すこしずつカドミウムでできた制御棒を抜いていった。計算尺で絶えず理論値をチェックしていたフェルミの指示と予言どおりに、臨界点に達し28分間運転をつづけた。そして、制御棒を安全な位置に固定して、実験は終わった(グルーエフ『マンハッタン計画』早川書房1967中村誠太郎訳 による)。(この時の出力は200ワットと言われている。もちろん、被曝を心配して、できるかぎり小さな出力で押さえようとしたのである。)

グローブス『原爆はこうしてつくられた』(第2版 恒文社1974)では、この実験炉が万一爆発する可能性を述べている(グローブスはマンハッタン計画の総責任者。(その4)で参照したアラモゴルドの原爆実験のレポート「実験について」の筆者、グローブス将軍である)。
計画されていた実験が付近の住民に及ぼす危険の有無についての不安を除けば、待つ理由はなかった。もし原子炉が爆発したならば、それがどの程度危険であるかは、だれにもわからなかった。スタッグ・フィールドの敷地は人口の密集した中心部にあるが、(別に用意してあった)アルゴンの敷地は十分に隔離されているので、私はコンプトン博士の提案(アルゴンを待たないで、すぐ実験する)が賢明であるかどうかについて大きな不安を感じた。(p47)
グローブスのこの本(『原爆はこうしてつくられた』)は、記者グルーエフが書いた『マンハッタン計画』より読みにくいかも知れないが、現場にいたものが書ける迫力がある。また、放射能の危険性についても、全面的に伏せることなく率直に書いているところもある(『マンハッタン計画』は成功譚であって、放射能の危険性などにはまったく言及されていない)。
次は、アラモゴルドの最初の原爆実験の実験日を決定する際の天気予報についての話である。
われわれはいろいろな理由でこの天候に関心を持った。まず第一に、とくに人口の密集した地域にできるだけ放射性下降物が降らないことを望んでいた。この問題は6ヶ月前まではほとんど留意されなかったことであるが、たまたまロスアラモスの科学陣の一人、ジョセフ・ヒルシュフェルダーがそれはじっさいにおこるかもしれないという可能性を提起したのだった。この理由から、われわれは雨が降りそうでないときに原爆を爆発させることが望ましいと感じていたのである。なぜかというと、雨中では、降下物がうんと広範囲に分散されてあるかないかの空中状態とならずに、限られた小地域にごっそりまとめて放射性降下物を集中して降らせることになると考えられたからである。(中略)
第二に風向きが希望どおりであることが何よりもたいせつだった。というのは、原子雲が発生したら、その放射性成分が跡方もなく吹き散らされるまで、居住地区の上を通過させたくなかったからだ。全住民を立ちのかせるには大きすぎる都市の上を原子雲が通過しないということはぜったいに必要だった。(以下略) (グローブス前掲書p276)
原爆の放射能に関して、ここに見てとれる特徴を二つ指摘しておきたい。ひとつは、強い放射性物質が大量に発生するので危険であることを明瞭に認識していたこと。ふたつは、放射性物質が「跡方もなく吹き散らされる」なら問題ないと考えていたことである。
これらは、厳密に考えると矛盾しているのであるが、戦時中はあいまいなままやり過ごされ、のちに「安全基準」まで薄めればよいという原子力推進の論理となって現在まで世界を支配することになる。この点についても、あらためて詳論しよう。

先に一度参照したものだが、アラモゴルドの原爆実験(1945年7月16日)を総責任者グローブスがポツダムにいるスチムソン陸軍長官へ報告した文書から、放射能関係の記述を含む部分を抜き出してみる。
(3)この雲は、地上から巻き上げられた数千トンの塵芥と相当量の気体状の鉄を含んでおり、二次的爆発が起こったのは、この鉄が空中の酸素と混合して引火したためであろう、とわれわれは推定しております。さらにこの雲の中には、核分裂によって生じた強い放射能を帯びた大量の物質も含まれております。

(6) 雲は、まず球状でかなりの高度まで上昇し、次いできのこ形に変わり、さらに長い煙の尾を引いた煙突のような円柱形となり、最後には、さまざまな高度において風の影響を受け、さまざまな方向に広がり、広範囲な地域にわたって塵芥と放射能物質を運んだのであります。
放射能効果を調査する器材を持った医学者や科学者たちは、雲を追跡しました。
非常に高い放射能が検出された地点もここかしこにありましたが、住民を退去させる必要があるほど高い放射能が検出されたところはまったくありませんでした。微量の放射能は、120マイル[193㎞]も離れた地点においても検出されております。将来、苦情が発生した場合に、政府の立場を防衛するのに十分なデータを収集しておくべく、放射能測定は続行されております。爆発後数時間、私は放射能物質の拡散状況について決して楽観はできませんでした。

(7) 200マイル[322㎞]も離れた地点にも、爆発効果、財産上の被害、放射能、住民の反響などをチェックするための観測員が配置されています。彼らからの完全な報告はまだ入っておりませんが、負傷者は1人もなく、また政府区域外で不動産の損害を受けた者もいないことが判明しております。膨大な資料を検討し、関連づけが行われ次第、完全な技術的研究が可能となるはずであります。
グローブスは、陸軍長官やトルーマン大統領やチャーチル英首相の目に触れることを当然予想しながら緊急のうちに書いたこのレポート中で、「TNT火薬1万五千トンないし2万トン相当」の空前の威力を強調しつつも、上のように放射性物質の飛散についても細かく述べている。ただ、全体としては「負傷者は1人もなく、また政府区域外で不動産の損害を受けた者もいない」というまとめ方であった。



E.J.スターングラスはこの時の「原子雲」の流れを、ランシング・ラモント『トリニティの日』を用いて知り(「トリニティ」は原爆実験のコード名、ラモントはタイムの記者。上図は、ウイキペディアの「トリニティ実験」からいただきました。)、それに添って胎児・乳幼児死亡率が上昇していることを発見している(『死にすぎた赤ん坊』原題 “Low level radiation”、時事通信社1978肥田舜太郎訳 p119~)。このスターングラスの本は図表がまったくなく、けして読みやすくはないのだが、特にこの章「トリニティの雲」は迫力がある。
胎児・乳幼児の死亡率上昇の原因には、多様なもの(殺虫剤、薬品、食品添加物、重金属類、大気汚染、母親の喫煙・・・など)があり、放射能が原因だといっても説得力が弱いのである。ところが「トリニティ」作戦の“死の灰”は人類による初めての核実験が原因であり、「これ以前には環境中には核の死の灰はなかった」のであるから、もしトリニティの「死の灰」降下地域に胎児・死亡率の上昇があればそれは環境に新たに加わった因子として評価できる、というのである。しかも、医学や保健の進歩によってなのだろう、1940~45年は「アメリカのすべての州で乳幼児死亡率の堅実な下降が続いていた最も長い期間」(p123)であった。それが、特定の“風下地帯”で死亡率が異様な増加を示したのである。これは死の灰による影響であることを否定しがたい。

つまり、放射性物質の拡散状況は、(1) 胎児や乳幼児に被害が敏感に出ること、(2) 発症まで低レベル放射能なら時間を要することなどを考慮しないと、安全か危険かの判断はできないということである。

われわれは、この議論に入る前に、マンハッタン計画の頃のアメリカの状況をもう少し見さだめておきたい。


(2.3) プルトニウム汚染

「マンハッタン計画」は暗号名であり、原爆を製造するという軍事秘密を厳重に守ることが重視された(原爆投下直後のトルーマン大統領の声明の冒頭は「16時間前に広島に爆弾を一発投下した。この爆弾はTNT高性能爆薬の2万トン以上に相当する威力」を持つというものであったが、この長文の声明の中には、この作戦は20億ドルを費やし12万五千人を雇用したが、「自分が何を生産してきたのか知っている人はほとんどいない」という特徴的なセリフが入っている。計画の全貌を承知しているのはほんの数名の、学者と軍-政府の責任者だけだった。げんに、原爆投下の4ヶ月前まで副大統領だったトルーマンはルーズベルトの急死で大統領になるまで、何も知らされていなかったのである)。これは軍事作戦だったのだから当然だろうという面と、都合の悪い面はのちのちまでも秘密のままにしておいたという面の両面がある。

後者に入る重要な事実が、この計画全体の医療部門がどのような規模のもので、どのような活動をしたかということである。この面は「マンハッタン計画」を述べた多くの書物でまったく触れられていない。これは、X線と放射性物質については医療的関心が高かった19世紀末から第1次大戦後までの学問の流れからすると、まったく不自然なことなのである。というより、核分裂の現象が発見される(1938年)までは、一般人には放射能はもっぱら医療的関心以外の対象になることはなかった。
わたしがこの点で、初めてある程度納得したのはアイリーン・ウェルサム『プルトニウム・ファイル』(上・下)(翔泳社2000渡辺正訳 原著“The Plutonium files”1999)を読んでからである。このウェルサムの本は、マンハッタン計画の中で、正面からプルトニウムの人体への影響を取りあげている。その点が貴重であるし、意義深い。(ウェルサム記者といえばアルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』(小学館1994広瀬隆訳・解説)を想起するが、これは広瀬隆がアルバカーキー・トリビューン紙のウェルサム記者の「一連の記事」“THE PLUTONIUM EXPERIMENT”と“AMERICAN'S ATOMIC FALLOUT”を訳出し、解説を付けて一冊の本としたものである(同書奥付)。したがって、この2著は重なっているところも多い。『プルトニウム人体実験』は人体実験という衝撃的事実を衝撃的に伝えている。しかし、人体実験をアメリカの核兵器製造の全体の構図の中において見るには『プルトニウム・ファイル』の方が視野が広く、本質を突いている。アメリカという国家・軍・産業のあり方について考えこまざるを得ない。もっと読まれるべき本だと思う。

シラードが「核分裂の連鎖反応」という着想を得たのは1933年である。ドイツで核分裂現象がはじめて発見され(1938年)、シラードとフェルミはウラニウムの核分裂で数個の中性子が生まれることから連鎖反応が実際に可能であることを理論的に確かめた(1939年)。フェルミがシカゴ大の「パイル」黒鉛炉でそれを実証したのが、1942年12月であった。
この10年足らずの間の核物理学の進展は、“象牙の塔”の極点のひとつで物質の究極を探求していた先端的な物理学者たちを、一気に軍事-産業の世界的先端へ押し出してしまったのである。ウェルサム『プルトニウム・ファイル』の第4章は、つぎのように、放射能の本質をもっとも良く理解している物理学者たちの“医療的”観点からの反応を描いている。
1942年の夏、フェルミのパイルがうまくいく気配を察した科学者たちは、わが身の安全を心配し始める。お粗末な原子炉でも莫大な放射能を出すとわかったのだ。パイルは、喉から手の出るほどほしいプルトニウムを生んでくれる。しかしそのかたわら、副産物として、周期律表の真ん中あたりを占める元素の放射性同位体をつくるのだ。そうなると、放射性の混合物からプルトニウムを分けとる作業は非常に危ない。
アーサー・コンプトンの手記によれば、物理学者たちはこんな思いでいたらしい。「むかし放射性物質を研究した学者はたいてい早死している。俺たちは、あれより放射性が何百万倍も高い物質をいじることになる。寿命に影響が出るんじゃないか?」。それならばとコンプトンが決断――「放射線の生体影響を知り抜いている人間をシカゴに送りこもう」。(ウェルサム『プルトニウム・ファイル』上p35)
このコンプトンは物理の“コンプトン効果”のコンプトンである(光と電子の衝突で光が粒子としてふるまう場合の解析、高校物理に出てきます)。シカゴに送りこまれたのは、ロバート・ストーン。ガン治療に中性子線を使う研究をしていた。

プルトニウムの発見者はグレン・シーボーグである。彼がサイクロトロンをつかってウランからプルトニウムを造り、分離に成功したのは1941年のことである。シーボーグは1944年1月に、シカゴの医療責任者ロバート・ストーンに次のようなメモを送ったことが記録されている(シーボーグは化学的にいくつもの超ウラン元素の確定に寄与し、1951年にノーベル化学賞を得ている。また106番元素にシーボーギウムの名をつけられる栄誉を受けている)。
プルトニウムは、元素も化合物もじつに危ない。長時間アルファ粒子を出すから、体内にわずか1ミリグラム以下がとどまるだけでも危険だ。ぐっと下、数十マイクログラムでもおかしくなる恐れがある。当地シカゴでもサイトY(ロスアラモスの暗号名)でも、いずれそうとうな量を扱う。よほど気を配らないと、いろいろなルートで微量が体に入る。事故をくい止めるには、安全基準を確立し、さらに、体内でプルトニウムがおよぼす作用をつきとめる研究が必要だ。以上を最優先すべきである。(同前p63)
この「研究」は人体実験のことだったのか、とのちにシーボーグは訊かれている(動物実験のつもりだったと答えている)。
わたしは、ここでは、アメリカでの人体実験の詳細には入らない(上掲のウェルサムの2著を読んでください)。アメリカの研究者たちは、プルトニウムという新元素が、やがてキログラム単位で扱われることを見据えて問題にしていることを、注意したい(このメモの時点で「地球上にプルトニウムはまだ2ミリグラム」もない、と前掲書(p62)は述べている。だが、1年半後に実験することになるトリニティ爆弾はプルトニウム10㎏ほどといわれる。その1月後に長崎に投下されたのも同じ。クリントン大統領にエネルギー省(DOE)長官に指名された黒人女性のヘイゼル・オリアリーが多くの秘密文書を公開したが、1993年12月に、「合衆国はプルトニウムを89トン生産した」と述べている『プルトニウム・ファイル』(下p204))。そして、このやがて研究レベルを超えて“放射性物質の産業”が生まれる状況をよく想定して、恐怖していると思う。

マンハッタン計画のなかの医学部門の責任者はスタフォード・ウォーレンで、ウォーレンは広島・長崎の被曝調査に来日する人物。ウォーレンの下でロスアラモスの保健部長になるのがルイス・ヘンペルマン。
どの研究所・工場もプルトニウム汚染に直面していたが、なんといっても、原子爆弾製造用に金属プルトニウムの精製・成形もするロスアラモスは深刻だった。文字盤塗装工の悲劇に心底おびえたヘンペルマンは、万全の備えをしようと思いたつ。安全講習会を開き、パンフレットをつくり、ツナギ・長靴・帽子の着用を義務づけ、プルトニウムをいじる机に敷く板ガラスを注文し、ドアノブ経由の汚染を防ぐため扉をバネ式に変えさせ、監視計器、集塵器、マスクなどをとり寄せた。こういう規制も、とくに科学者はなかなか守ろうとしない。規則など頭から守る意志のない「個人主義者ども」だった、と後年ヘンペルマンがぼやく。「学歴と研究能力の高い人間ほど、きまりを無視しがちだった。用務員はいつだっておとなしく言うことを聞いたのに。」(同前p66)
これが1944年夏の段階の話だ。プルトニウム汚染を防ぐために考えられる手を次々に打っていく。毎日2度、看護婦が鼻の穴を先端に紙を巻いた棒で拭きに来る。もちろん、その紙をカウンターで計測する。時には恐ろしい数値が出たりする。しかし、目に見えない微粒子を浴びて、それを室外に体と共に持ち出すのを防ぎきれない。44年8月にはロスアラモスの「D棟とH棟の汚染が進んできた」と健康管理報告にあるという。
D棟は総延長8キロの配管系と高級な換気装置が浮遊物をしっかりすいとっていたはずなのに、手のつけられないほど汚染が進み、戦後になって解体したほどだ。H棟には実験室と事務室があった。「大量のプルトニウムをいじるようになって、予想どおり2棟の汚染がどんどん進んだ」とヘンペルマンの記録にある。(同前p68)
事故もおこる。44年8月1日のことである。マスティックという若い微量物質の化学分析の専門家が実験室で、プルトニウム10㎎入りのバイアル(資料瓶)のガラスの首を折ったところ、内圧が上がっていて液がピュッと飛びだし、一部は口に入った。プルトニウムは放射性なので常に発熱しているのだ(このときの対処の有様などは、前掲書第1章を読んでください。マスティックはそのあと、長生きする)。
これらは、プルトニウム型原爆(トリニティ爆弾)の最初の実験の1年たらず前のことなのだ。この状況の中で、ヘンペルマンらはプルトニウムの人体実験を計画する。最初の注射が行われたのが1945年4月10日。つまり、プルトニウム人体実験が秘密裡に強行されたということ自体が、マンハッタン計画関係者の放射能に対する強い恐怖感を証明していた、といえよう。



内部被曝 (その2)  終わり





































「内部被曝」について  (その3)アメリカの「内部被曝」を認めない態度(続々)

放射能物質のバリケード計画
原子爆弾の放射能


(3.1) 放射能物質のバリケード計画

もうひとつ、マンハッタン計画の首脳部は放射能の危険性を明確に意識していたことのこれ以上はない証拠を出しておく。それは、グローブス『原爆はこうしてつくられた』の第14章「重大な軍事問題」に詳細に述べられている、連合軍のヨーロッパ上陸作戦(いわゆるノルマンディ作戦)の際に、ドイツ軍は強い放射性物質による障壁を築いているかも知れないという可能性についてである。
ドイツはプルトニウム方式の開発の段階において、大量の高い放射性核分裂生成物が原子炉で生産されることを発見するにちがいない、とわれわれは考えた。こうした生産物を地上部隊が大きな損害なしには通過できない防壁として使用しようと考えることは、ドイツとしてはまったく当然のことだろう。(p160)
放射性物質を取り扱うのは敵味方双方にとって厄介であるので、可能性は低いが、警戒はしておいた方がよいだろうというのがアメリカの最終判断であった。イギリスにいるアイゼンハワー将軍に密使を派遣して、放射能攻撃に遭った場合の対処法を報せるというものである。

陸軍少佐A・V・ピーターソンがイギリスに派遣され、連合軍首脳と会議を持ち放射能戦について説明した(いうまでもなく、大量の放射能による攻撃という概念自体が、極秘事項であった)。「写真またはX線のフィルムのくもり、または黒くなった場合の報告」という指示が各軍医長や病院長宛に出されている。また、同じく「伝染病に関する報告」という指示も出されている(1944年5月3日付)。これは、放射能の危険性について、マンハッタン計画の首脳部がどのように認識していたかを証する興味深いものである。
1、原因不明の病気について、いくつかの報告があった。この病気の症状はまだ十分明らかにされていないが、少数の徴候 と症状は比較的に不変なように思われる。これらの重要な点は次のとおりである。
a、疲労――これは症状によって異なり、軽い症状では小さく、重い症状の場合は大きく、衰弱の状況が見られることさえある。
b、吐き気――これは経く、重い症状ではしばしばはげしい吐き気をもよおす。
c、白血球減少症がつねにあらわれ、これは確実な徴候である。それは早期にあらわれ、症状の重さに比例し、重症の場合には一立方㎜あたり1000以下となる。  d、紅斑が重症の場合は見られる。それは拡散型のもので、手足の先の部分に多くあらわれる。
2、伝染――特発的な場合はきわめて少なく、一般的に大小の別はあるがグループに起こりやすい。疑わしい患者が一人現われただけで罹病と診断するわけにはいかないが、同じ症状が集団に現われた場合は、この病気が存在する可能性は大きい。

3、報告――この病気の伝染について徹底的に調査するため、米軍欧州戦域の各医務部は、この病気の疑わしい徴候をすみやかに医務部長あて直接報告されたい。(前掲書p164)
アイゼンハワー将軍は、極く限られた幕僚にこの問題の要旨を説明したが、フランス上陸作戦の「米英軍指揮官には説明していない」云々の報告を出している。

これらの記録によって、マンハッタン計画の首脳部(特に学者たち)が放射能の危険性を正確に認識しており、また、この翌年の夏、広島・長崎で悲惨な形であらわれる“原爆症”についても、あらかじめ放射能による被害であることを承知していたと考えられる。


(3.2) 原子爆弾の放射能

しかし、なんといってもマンハッタン計画はアメリカ陸軍の軍事計画であり、学者-軍-産業の総力をあげて原子爆弾を造ることが目標であった。したがって、医療的な配慮が二の次になるのは避けられないことだった。
1945年5月の初め、原子爆弾を吊るタワーの建築にかかる。オッペンハイマーは実験を統括する「TR計画」(トリニティ計画)という新組織をつくった。研究所の公式記録を読むと、6月までTR計画に医師団は入っていない。うっかりだろうけれど、これも医師の立場が二軍級だった事実をよく語る。医師は、雇われたのも最後、計画立案に加えられたのも最後だった。地位の低さにはそのうちに慣れたが、戦後になって自分たちの役回りを説明する医師の声にはそこはかとない苦々しさが混じった。「全員、あとは野となれで、原子爆弾の完成に一心だった。われわれ医師はあまり相手にしてくれなかった」とウォーレンが回想。ハイマー・フリーデルも健康安全の担当は「出入り許可者」クラスだったと語る。(『プルトニウム・ファイル』p101)(ウォーレンは既出だがマンハッタン計画の医療責任者、フリーデルはウォーレンの助手。もちろんいずれも有名な医師。)
原子爆弾を製造し、それを日本に対して投下することは、戦争を早く終わらせることができ「多数のアメリカ人の生命を救うことになる」という論は、原爆製造のかなり早い段階から主張されていた。
マンハッタン計画がスタートしたのは42年8月17日であった。デュポン社がプルトニウム製造工場をまかされるのであるが(ワシントン州ハンフォード)、グレーブスがデュポン社に出向いて社長を説得したのが同年11月10日のことだった、とグレーブスは『原爆はこうしてつくられた』に書いている。その場面から。
私は、この計画は国家が緊急に必要とするものであり、ルーズベルト大統領をはじめスチムソン長官もマーシャル将軍も同じ見解であると述べ、この計画の中には次の三つの基本的な軍事上の考慮が含まれていると説明した。
その第1は、枢軸側はプルトニウムまたはU235、あるいはその双方をすみやかに生産できる状況にあるかも知れない。枢軸側がそのような努力をしていないという証拠がないので、われわれはそうであると推定しなければならない。

第2に、核兵器の軍事使用に対する防衛法がわかっていない。

第3に、もしわれわれが適時に成功したならば、戦争の期間を短縮でき、多数のアメリカ人の生命を救うことができる。(同書p44)
この部分とほとんど同じ場面を『マンハッタン計画』も描いている(p84)。

しかし、原子爆弾がじっさいにはどのような爆弾であるのかは、実地にためしてみるまでは分からなかった。原爆第1号(トリニティ)をアラモゴルドで爆発させたのが45年7月16日。それの爆発力はTNT火薬2万トン相当といわれる(5月7日にTNT火薬108トンを使って、予備実験が行われた。計器の校正などを行ったのであるが、これ以来、核爆弾の性能をTNT火薬何トン分という言い方が広まった)。 これは、通常爆薬の化学的燃焼による発熱と違いはなく、高温による膨張で衝撃波が生じる現象を指している。
原爆の特徴はあと二つある。ひとつは強い熱線が発生することである。熱線と強い光である。それによって、爆心近くのすべての物質が蒸発してしまうほどの威力がある。広い範囲の人間に火傷を与える。強い光は「閃光失明」をおこす。もうひとつは放射能である。 これにはいろいろ質の違うものがあり、時間スケールも広く考えないと原子爆弾の“威力”は把握できない。
(1) 核爆発で直接にでる中性子・ガンマー線などの強い放射線。直後。爆心からの距離やいた位置などにより、即死から数日~数週間して“原爆病”を発症する。

(2) 核分裂生成物と、中性子照射をうけた建物・地面などが放射性物質となり破砕され粉塵となる。これらの多くは成層圏まで舞い上がり、やがて広い範囲に落下してくる“死の灰”。風向きや降雨に影響される。数日~数週間。外部被爆と内部被曝の両面が心配される。

(3) 広範囲に降下する“死の灰”の薄められた粉塵を呼吸したり、それらによって汚染した家畜・牛乳・魚・野菜などを口にすることによる間接の被曝。内部被曝。数十年をへて発ガンや子孫へ影響が出ることまで考えないといけない。
ところが、原子爆弾を「実用的な爆弾」として認知してもらうために、米軍は極力、放射能の影響を少なく評価しようとした。
そのためにやったことはTNT火薬何トン分という爆発力をできるだけ強調すること、ついで原爆の熱線や光線は物陰に隠れたり、伏せていれば避けられるという宣伝を盛んにした。放射能の影響は直ぐ消滅することを強調し原爆投下まもなくでも、爆心地へ入ることができるということを公式見解として盛んに宣伝した(この公式見解は、戦後に、米軍兵士を核兵器に恐怖感を持たせないための訓練を盛んに行うが、その際の理論的根拠でもあった。)。

次の『プルトニウム・ファイル』からの引用は、放射能の悲惨さを報道する「ラジオ東京」【注】 を引用したニュースに関してグローブスが、45年8月25日に外科医チャールズ・リー陸軍少佐に電話で意見を求めているところである。リー少佐は軍の公式見解をそのまま述べている。「 」はニュースの引用。
グローブス 「広島と長崎の死者はなお増加の一途だという。ラジオ東京は広島を『死の町』と呼んだ。人口25万を数える大都会の家屋は、9割が一瞬で倒壊したもよう」。25万とはほんとかね。開戦時はもっと多かったはずだし、あそこは軍事都市だろう。「町にいるのは、亡霊のようにうろつく人影ばかりで、生存者もいずれ放射能のせいで死んでいく。」
リー ちょっとお待ち下さい。よくできたプロパガンダですね。死者は普通の焼死、熱で焼け死んだというのが真相だと私は思いますが。
 僕もそう思った。こんな個所もある。「放送ではこう言った――重症を負った被爆者が『殺してくれ』とわめく。おそらく全快の望みはない」。
 ゆうべ私どもの受けた報告もそうでした。
 つぎにこれだ。「ウランの分裂がばらまいた放射能は、次々と人命を奪い、広島の復興作業者にも多様な障害を生んでいる。」
 たぶんこんな話でしょう。放射能なら被害はすぐには出ない。じわじわ出るんです。被爆者はただ火傷しただけですよ。火傷もすぐには気づきません。少し赤くなって、数日したら火ぶくれが出て、皮膚がくずれたりしますね。それでしょう。(上p114)
【注】ここの「ラジオ東京」についてネット検索していて、豊田沖人「東京ローズと私」という文章に行き当たった ここ。豊田沖人さんは、NHKの海外放送の英語アナウンサーで、「東京ローズ」は自分の「大先輩」となる、と言っている。
実は、〈東京ローズ〉と私の間には二つの共通項がある。そのひとつはNHKの海外向け放送。戦前彼女が放送したラジオ東京は、4年前まで私が英語アナウンサーとして勤務していたNHKの国際放送ラジオジャパンのいわば前身であり、彼女はある意味で職場の大先輩なのである。
NHKがアメリカ向けに海外放送をはじめたのが、1935年6月1日である。おそらくそれを「Radio Tokyo ラジオ東京」と言って放送していたのだ。
広島への原爆投下8月6日の数日後「ラジオ東京」が、「広島は『死の町』になっています。人口25万を数える大都会の家屋の、9割が一瞬で倒壊した模様であります」と海外向けに放送したのであろう。リー少佐が「プロパガンダ」と言っているのだから、米軍側の放送ではなく日本側の独自の編集で放送がなされていたNHKであることは間違いない。
GHQが検閲を始める前、どの時点まで「ラジオ東京」の放送が継続したのか。たとえば「玉音放送」を短波放送して、海外戦地に送信したことについては証言があるが、一般に、GHQ進駐以前のNHK放送が8月15日以降どの時点まで継続し、どの時点で終熄し、どのように再開したのか。こういう点は興味のあるところだが、保留にしておく。


なおリー少佐がここで、原爆被爆の真実の情報にたいしてプロパガンダであると決めつけるやり方は、アメリカの権力中枢がよく使うレトリックである。公式見解に虚偽が含まれるときに、真実の情報に対してプロパガンダ呼ばわりする(公式見解のほうが本当はプロパガンダなのだが)。

原爆投下後、マンハッタン計画の医学部門のリーダーであるS.ウォ-レンらの一行が広島に入ったのは、45年9月8日のことである。その2日前にすでにウォーレンの上司であるファーレル准将(マンハッタン計画の総責任者グローブスに継ぐ、副責任者)が、東京の帝国ホテルで、
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
と発表していることは既述した。
ファーレルは広島や長崎の状況を調査したデータを持ってこのように記者会見したわけではないのである。それなら“嘘をついた”ことになるが、それは、ウォーレンらが調査して後のことである(もちろん、ファーレルは後々までこの会見の発言を訂正しなかった)。ファーレルは全世界を相手に、嘘以前の「プロパガンダ」をやってのけているのである。つまり、ファーレルは米軍首脳部の既定の方針通り、原爆の強烈な破壊力は強調するが、放射能の影響はすぐなくなってしまう、という見解を述べたのである。つまり、原子爆弾は、通常爆弾の規模の巨大なものであるという公式見解を述べたのである。

次は、『プルトニウム・ファイル』にある、ウォーレン調査団らについての記述で、ファーレルの露骨な指示が明らかになっている個所である。
ウォーレンの任務は負傷者の治療ではなかった。原子爆弾が放射能を残したかどうか、もし残したのなら死因が放射能かどうかの調査だ。調査団のひとりドナルド・コリンズが後年、自分たちはグローブスの主席補佐トマス・F・ファレルから、「原子爆弾の放射能が残っていないと証明するよう」言いつかっていた、と打ち明ける。たぶん調査団は、被爆地へ出向く必要さえなかった。というのも、一行がまだ日本派遣の指示を待っていたころ、「『スターズ・アンド・ストライプ』にわれわれの調査結果が載ったよ」とコリンズが語ったそうだから。(上p119)
ウォーレンは9月10日にワシントンへ打電しているが、「放射能による死傷者数は不明ながら、予備調査で死亡者[訳文は“生存者”だが、意をとって変える]はごく少数と判明」というもの(p116)。後に、上院特別委員会で証言したときは、放射能による死者は全体のわずか5~7%だと見積り、「放射能は誇張されすぎです」と述べている(p120)。
つまり、原子爆弾の巨大な爆発力と熱線による火災と火傷による被害と説明し、通常爆弾の大規模なものという見方を押しつけようとしているのである。

9月10日にグローブスは、記者とカメラマンを37名、トリニティの実験現場に案内している。一行にはオッペンハイマーやヘンペルマンが説明役として同行した。実験から3週間後の実験現場のクレーターの中を歩く。
直径700メートルほどの範囲に散らばる緑のガラスの面には、うわぐすりをかけて焼いたような土くれがあった。実験から3週間との爆心地区は、爆発で死んだ小動物の死体が悪臭を放つ。AP通信の科学記者の記事によると、放射能はまだかなり強く、「クレーターに一昼夜もいればおそらく危ない」。記者は続けた。
見学会の目的は二つ。信じがたい現実を信じさせることと、合衆国は不正な手段で勝ったという日本の宣伝工作が事実無根だと証明できる事実を見せることだ。ニューメキシコ州の実験は、日本に落とした原子爆弾とほぼ同規模だった。そのとき起きた現象のくわしい調査で、日本の被害も熱と爆風によるものだと核心できている。
しわくちゃで汗まみれのカーキ色の軍服に身を包むグローブスは、カメラマンにクレーターの写真を撮らせ、手際よく撮影しないとフィルムがかぶるぞ、と忠告。トリニティの残留放射能は、広島・長崎よりずっと低空で爆発したせいだ、と説明した。(中略)「日本の死者は、一部は放射線が原因だろうが、その筋の情報によればその数はそうという少ない」と彼は記者にうそぶいた。(p116 強調は引用者)
グローブスが「残留放射能」について言い訳をしているところに注目して欲しい。記者連中をまえにして、これは以下に説明するように急所だったのである。人倫にもとる汚ない爆弾による「不正な手段で勝った」という評判を、米軍は怖れているのである。
オッペンハイマーは、爆発高度を決めるさい放射能汚染が最小になるよう計算は入念にしてあると、グローブスをフォローしている。
トレードマークのフェルトの中折れ帽をかぶったオッペンハイマーがつけ加える。爆発の高度は、「地面の放射能汚染により間接的な化学戦争となることがないよう、また通常爆発と同じ被害しか出ないよう」念入りに計算してあります。爆発から1時間もすれば、救援隊が町に入っても大丈夫です・・・・。なにしろ大物二人のお墨つきがあったから『ライフ』誌も安心してこう書いた。「広島と長崎の死者は、大規模とはいえ合法的な爆撃の犠牲者だった」。(p117 強調は引用者)
ドイツのドレスデンや、東京を初めとする日本の都市への大規模無差別爆撃が「大規模とはいえ合法的な爆撃」と言えるかどうかは別として(明らかに国際法違反であるというべきだが)、アメリカ政府-軍の首脳は原爆はそれの延長上に位置づけられる武器であるとしたかったのである。


広島・長崎の実際の“爆撃状況とその効果”を調査するために日本に派遣されたマンハッタン計画の最高首脳が、何度もいうようにT.F.ファーレル准将であった。そのファーレルがグローブスに宛てて「原子爆弾の報告」という覚書を1945年9月27日付で、送っている(『米軍資料 原爆投下の経緯』東方出版1996奥住喜重・工藤洋三訳所収の資料E)。
この「覚書」の注目点は、主たる死傷の原因は爆風、飛散物、および火による直接のものであること、残留放射能がないことの二つを強調していることにあると思われる。

まず、つぎは前者を強調した後、放射能は爆発時のガンマー線による被害だけであるとしている。
ウォーレン大佐は、広島の死傷者の最大多数は、おそらく爆風、飛散物、および火によって生じたものと結論した。実際の内訳数はおそらく決して判らないであろう。多くの者が最初の爆発の結果がもとで、後日に死んだであろう。ウォーレン大佐と彼の医師団は、放射能によってひき起こされたと見られる症状の患者の数を調査した。これらの患者の障害は、爆発時のガンマ線にさらされたためだけによるのであって、危険な量の放射能が地上に沈殿した結果ではないというのは、ウォーレン大佐の見解である。(中略)(トリニティの実験の場合より)遙かに高いところで爆発したことが、地上に多くの放射能が沈殿することを妨げ、同時に兵器としての爆風効果を増大させたと信じられた。(p149)
後者について、広島に関する記述。
われわれは科学上の要員によって、何らかの放射能が存在するかどうか、詳しい測定が行われた。地上、街路、灰その他の資料にも、何も検出されなかった。(p149)
長崎に関する記述。
病院船ハヴ(Have)に乗っていたある海軍の軍医は、爆心地全体から土と木と金属の試料を採取し、放射能を調べた。採取された物質には放射能はまったく検出されなかった。

予備調査の日以来、われわれの医学的および科学的要員は、放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった。(p151)

広島においても長崎においても、原爆投下の時は別の地域にいた人が、肉親の安否を求めて爆心地に入って“原爆病”を発症して悲惨な死を迎える例が多数あったことは周知のことであるが、これは「残留放射能」はなかったことにしたい米軍の基本方針に反することである。ファーレルの「覚書」は周到にこれを否定している。

まず広島について。
日本とアメリカで報道された話に、疎開を応援するために地域に入った人々が死傷したというのがある。真相は、爆撃以前に発せられていた疎開命令を実行するために広島に入っていた疎開要員が爆弾の爆発に巻きこまれて多くの死傷者がでたということである。(p148)
ついで長崎について。
日本の公式報告は、爆発後に外部から爆心地に入った者で発病した者はいないと述べている。(p150)
ここに引用したファーレル「覚書」の多くは意識的な虚偽である。なぜなら、「ウォーレン大佐と軍医将校の一群」(p148)が調査をしてその結果をファーレルにあげてくるはるか前に、ファーレルは帝国ホテルで記者会見し
原爆放射能の後障害はありえない。広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ。
と全世界の記者へ発表したのであるから。「あり得ない」と言うのが、現実と乖離しているファーレルらしい。
まさに、「9月上旬現在において」広島でも長崎でも生地獄の死の苦しみの中にいた日本人が何千人といるときに、ファーレルは上のようなことを平気で述べることのできる魔王であったのである。

だが、魔王たらざるをえかなったのはファーレル准将だけではなく、この虚偽を承知しているアメリカ首脳部全体が、この後、嘘を言い張らなければならないそういう世界を作っていったのである。つまり、戦後の自由アメリカと共産ソ連の。

ゆえに、この「虚偽」を守ることは、単にアメリカ国内向けの配慮だけでなく(グローブスはつねに議会対策を気にしていた)、核兵器を独占的に持つことによって戦後世界の覇権を握ろうとする世界戦略の要の問題であった。手短に言えば、核兵器も兵器である、ということである。“核兵器は汚れた卑怯な爆弾”という世評が生まれることを極度に警戒した。もしそうでなければ、マンハッタン計画はすっかり出直さなければならなくなるのだが、軍首脳もこの計画にすっかりのめり込んでしまっていた産業界も、到底引き返すことはできなかった。そして、生まれたばかりの原子力産業は、無限のエネルギーと富を創り出す金の卵であった。

それゆえに、それ以降アメリカは、明らかに真実ではないことを真実といいはりつづけることになった。これは戦後アメリカ国家の中枢にあって隠し続けなければならない虚偽であった。「自由と正義と繁栄の国、アメリカ」というイメージを維持したいから。

マンハッタン計画の総責任者であったグローブスが、1945年11月28日の上院原子力特別委員会でまず最初に受けた質問は、原子爆弾が日本に放射能を残したかどうかである。上院議員たちも気になっていたのである。グローブスは断固として答えた。
ありません。きっぱり「ゼロ」でした。  (『プルトニウム・ファイル』上p124)



















































































「内部被曝」について  (その4)核兵器と“核の世紀”

アメリカ政府の公式見解
核の世紀


「内部被曝」について (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8) 目次 へ





(4.1) アメリカ政府の公式見解

ヤルタ会談は1945年2月だった。そこで米・英・ソの間で交わされた極東密約で、ルーズベルトは千島列島をソ連領とすることを条件に、スターリンにドイツ降伏後2~3ヵ月の間に日ソ中立条約の一方的破棄をすること、すなわちソ連の対日参戦をうながした。ドイツ無条件降伏(ベルリン陥落)は同年5月7日であったから3ヶ月後は8月7日である。
アメリカは九州上陸を構想しており、おそくとも同年11月までには日本上陸を決行するつもりでいた。日本軍特攻隊の恐怖を実感していた米軍首脳は、日本をはやく敗北させる方法としてソ連対日参戦か原子爆弾かの二つの選択肢があることを意識していた(たとえば、グローブス『原爆はこうしてつくられた』p293)。日本列島への強行上陸を行えば、日本国民は死にもの狂いになって抵抗し、米軍にも相当数の犠牲者が出ることは不可避であると深刻に考えていた。

ソ連はヤルタの密約をギリギリ守って、8月8日に対日宣戦布告をしソ満国境を進攻した。日本はその直前までソ連が対日和平で動いてくれる望みをつないでいたのだから、お人好しというか情報戦がまったくできていない醜態をさらした。このソ連参戦を挾むように、6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下された。
アメリカ側から見ると、ソ連が太平洋岸へ進出し日本列島を勢力圏内に収めることになれば大きな失点である。広島・長崎への痛撃によって日本がすぐさま敗北したことでヤルタ密約の線(ソ連の権益を千島-満州の線で収める)を確保できたのである。

アメリカはポツダム会談(45年7月17日~8月2日)の最中に原子爆弾第1号(トリニティ)の爆破実験に成功し、この巨大な爆発力と原子力が戦後世界の覇権の決め手になることを確信する。
その理由は二つあり、
  1.  核エネルギーは、きわめて巨大かつ無限のエネルギーであるように見えること。それまでに人類が知っていた化学的エネルギー(火薬など)とは桁違いに大きいこと。
  2.  アメリカ国家だけが核エネルギーを手にしていること。学者・技術者グループの存在と、産業的な裏付けがある。その中で、巨大科学のプロジェクトを可能にする計画理論やコンピュータが育っていく。
それゆえ、アメリカはこの“絶対優位”を最大限使って、戦後世界の覇権を確立するべきである、という「世界戦略」を戦中から構想することになる。核兵器を保有する可能性のあったドイツと日本をすでに潰したのであるから、可能性のあるのはソ連だけである。
しかし、ソ連はチェコのウラン鉱山を接収しドイツの科学者を手に入れた。早くも45年のクリスマス・イブにモスクワの米国大使館員は次のように報告している。
ソビエト連邦は原子爆弾を手にすべく足を踏み出した。このことは公式に明言され、入手できた不十分な情報から、多大な努力がその事業のために払われ、最優先権が与えられるだろうと示唆されている。(リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』紀伊国屋書店1995神沼二真・渋谷泰一訳 下p623)
チャーチルが「鉄のカーテン」という語をふくむ演説をしたのは46年3月だった。広島・長崎からわずか4年後の49年8月にソ連が大気圏内核実験に成功した(現在はカザフスタンに属するセミパラチンスク実験場で)。つまり、アメリカの絶対優位はわずか4年間しか続かなかった。
それから、米ソ対立の核兵器競争がはじまる。水素爆弾の最初の爆発実験は1952年11月1日、エニウェトク環礁で行われた。

アメリカの政府-軍部の核兵器に関する公式見解は、先に述べたように、原子爆弾の放射能の影響をできるだけ過小評価するもの、ことに放射能の持続的影響を無視できるとするものであった。


  1. 原爆のTNT火薬何万トン相当の爆発力というような、従来型爆薬から類推できる兵器性能を強調する。
  2. 熱線・光線による高温は、“地上に出現する太陽”といわれすべてのものを蒸発させ焼きつくす。火災・火傷による被害が甚大である。これは爆発の瞬間に現れるが、物陰に隠れていれば避けられる、というような面を強調する。
  3. 爆発当初の強いガンマー線の威力は強調するが、中性子による環境の放射能化は言わない。“死の灰”はまき散らされて薄まり、残留放射能はないとする。

これがアメリカ国家の、核兵器についての公式見解であった。
この公式見解は明らかに虚偽を含んでいる。しかも、それは軍事-政治的な理由で作為された、意図的な虚偽である。この虚偽を含む公式見解を採用したアメリカ国家の中枢の悪魔的構想を勇気をもって認識する必要がある。

この公式見解の上に、戦後の米軍が育ち軍事訓練が行われ、原子力産業が育ち、ソ連・ヨーロッパ・日本など全世界に広まっていった。そして、世界中の国家がこの公式見解をまねて、自分らの行動規範とした。核兵器-原子力産業の成長は、国家-産業-学者の複合体の成長であり、その中心に虚偽が存在していた。すなわち、核情報の国家による独占と秘儀化が、例外なく企てられた。その中心になるのが各国の原子力委員会である。古典的な「軍事秘密」が増殖して、核情報が国家の中核的秘密となり、桁違いに高額の国家予算を注がれる核兵器-原子力産業によって軍産複合が巨大化する。これを“原子力国家”と呼ぼう。

この後水素爆弾原子力発電などがつぎつぎに実験・開発され実用化されていったが、そのことによって、世界中に放射性物質がまき散らされ、人類はもとよりすべての生物が人造放射能を体内にとりこむことになった。
アメリカ国家がマンハッタン計画のなかで作った「公式見解」は世界中の国家と原子力産業が追随することになり、内部被曝は心配ない、原子炉から出す放射性物質は十分に薄めているから心配ないという強引な説明が通用している。十分に薄めるというのは、地球全体に行きわたらせるということに他ならない。
忘れてならないことは、原子炉の安全性神話の根底には必ず虚偽が含まれているということである。



(4.2) 核の世紀

アメリカ国家の核兵器についての「公式見解」は、広島・長崎の原爆被害に関してまず適用されたことは、既述の通りである。続いてこの公式見解が力を発揮したのは、米軍によるビキニ環礁・エニウエトック環礁・ネバダ実験場などでの原爆実験と、それに際して企画された大規模な軍事演習(何万人もの兵士を原爆・水爆の実験に立ち合わせ、閃光・爆風を体験させ、実験直後の爆心地ちかくを歩かせるなど)において、この公式見解が基準となった。つまり、自分らの子弟たる米軍兵士たちに対して、危険で無謀な公式見解を容赦なく適用したのである。(他国の人間に対して更に容赦なかったのはいうまでもない。このやり方は、現在の劣化ウラン弾の使用にいたるまでなんら変わっていない。それについては、後に扱う。)

ビキニ環礁で原爆実験がはじまったのは、1946年7月からだ。ついで、47年からエニウエトック環礁での原爆実験がはじまる(このあと、この両環礁で水爆実験も含めて66回の実験がくりかえされる。米軍兵士もさることながら、現地住民に対する人体実験的な非人道的扱いはヒドイものであった)。ソ連の最初の核実験が49年8月に実施され、50年6月に朝鮮戦争が勃発した。急激に発熱する東西対立のなかで、“少々の放射能リスクは無視すべきだ”という好戦派が力を持つ。アメリカ国内にネバダ核実験場を開設し、そこで実験がくり返される。ネバダでの核実験の最初が51年1月である。
次の引用は、『プルトニウム・ファイル』下巻から。
 軍事演習の目的は、マンハッタン計画のときと同じく世論を鎮めるため、いわば心の予防注射だった。国防省・国軍医学政策審議会の議長リチャード・メイリングが51年6月27日付のメモに趣旨をこうまとめている。「初心者はとにかく放射線を怖がる。核兵器を実戦や戦略につかうには、恐怖心の一掃が絶対である」。
 また軍は世界に向け、爆発直下の地面に残留放射能はないと証明したがった。広島と長崎以来、爆発から少し時間がたてば爆心に兵士を展開しても問題はない、と軍は断言していた。メイリングはそれを証明したくて、爆心近くで兵士を行進させるよう国防省をせっついた。
実戦演習により、原子爆弾の電離放射線が兵にも装備にも無害だと証明できれば、士気を殺ぐおびえや、根も葉もない恐怖心を一掃できる。恐怖心の撲滅は緊急課題であり、万事に優先させなければいけない。
その急先鋒がジェームズ・クーニー将軍だった。大規模演習が始まる数ケ月前の51年7月、彼はヴァージニア州フォート・モンローの陸軍訓練総司令部に出向き、軍事演習の目標を語った。合衆国の兵士にも、「ミスター・アメリカとミセス・アメリカ」にも、核兵器を怖がるのはナンセンスだとわからせるんだよ……。仲間の将校にはこうハッパをかけた。今や核兵器に対する「後ろ向きの防衛姿勢」を「前向きの攻撃姿勢」に変える時だ。風向きを変えるには次のことをやるべし。
  1.  たとえ爆心のそばで原子爆弾に遭っても長期の放射能傷害はほとんどないと教えこむ。
  2.  今後はできるだけ多くの兵士を参加させ(たとえば爆発直後に爆心近くで実戦演習させて)、核兵器に慣れさせる
  3.  放射線の許容量を、産業や実験室用の低い値から、軍にふさわしい高い値に変更する(メモの注記=以後の検討により、一度の被曝なら100レントゲン、くり返し被曝なら週に25レントゲンを8週間、が目安)。
ネヴァダの兵士がそこまで被曝した記録はないが、「目安」はとてつもなく高い値だ。当時のAEC(原子力委員会)は被曝を13週間あたり3.9レントゲン以下と決めていたし、現在の原子力産業では作業者の被曝量を年間5レム以下にしている。(『プルトニウム・ファイル』下p14)
米軍の放射能に関する軍略は、このようにお粗末で無責任なものであったことをよく認識しておく必要がある。もちろんこれが世界の最先端であり、他の国の軍隊はこれを見習うことになる。
この無責任さが軍隊内部でとどまることができず、「風下住民」全体の問題として、全地球的に・長期間影響を与える点が悪質である。遺伝子の撹乱という子孫へ与える悪影響を考えると、核兵器実験・枯れ葉剤・劣化ウラン弾は、20世紀後半に米軍が全世界にまき散らした悪業と言っていい。アメリカ国家は、これらの悪魔的所業の理由付けとしてつねに“民主主義の防衛”を第一に掲げていた。日本への原爆投下・ベトナム戦争・湾岸戦争。そして911以後のイラク戦争。これらを通底するアメリカ国家の秘儀こそが核兵器に関する「公式見解」の中に隠されている虚偽である。

典型的な“核兵器演習”の様子を紹介しておく。
 レンジャー作戦に行かせた兵士の少なさに一部の高官は不満だった。二度と脇役になるものかと、国防省は大型軍事演習のプランを練りだす。最初の演習は51年の秋、ネヴァダニ度目となるバスター・ジャングル作戦で行われ、以後11年間も続く。何千人もの兵士をネヴァダに送り、シユルツ(レンジャー作戦に参加し手記を残した兵士)たちのような無計画でずさんな演習にたびたび参加させた。気温が40℃に近い中、爆心近くに待ち受ける仮想敵めざして突撃した兵士もいるし、爆風で隊列から吹っ飛び、気がついたら爆心のそば、ほこりまみれだったという兵士もいる。
 演習はたいてい前回の放射能が残っている場所でしたため、実験を重ねるにつれて兵士のリスクは上がる。衝撃波は、前の核実験が振りまいたプルトニウムやウランなど放射性物質を合む数センチの表土を大気に巻き上げた。ときに兵士はトラックに積まれ、破壊の爪跡を見せられた。廃物のトラックやジープ、航空機もひっくり返り、ヘッドライト部分が溶け、皮のシートが燃えていた。爆心のそば、ケージ内に置いた羊の毛が焼けて悪臭を放つ。プレハブの家並み、スクールバス、マネキンをとりそろえた町の模型も目を覆うばかりに破壊されていた。
 ネヴァダと太平洋の大気中核実験に駆り出された兵士は合計で20万人を超す。(『プルトニウム・ファイル』下p14)
“キノコ雲”のなかを飛行機で突っ切って放射性試料を採取するという、無謀な演習もたびたび行われた。若く無知な兵士の冒険心を煽ってやらせたのだろうが、どれだけの意味があったのか疑問である。試料が付着したフィルターは鉛の壺にいれてロスアラモスまで送るのだが、鉛の遮蔽も完全でないから「乗員はできるだけ壺から離れるように」と注意書きをしたほどであったという。
 作製直後のキノコ雲を突っ切る最初の人体実験は1955年、ネヴァダのティーポット作戦でされた。パイロットの体内被曝が、フィルムバッジの語る体外被曝と合うかどうか調べる実験だった。突入前のパイロットに耐水性カプセルを飲ませる。カプセルにはフィルムの小さな円盤9枚を入れ、糸がつけてある。同じカプセルを飛行服の上にもつけ、爆発から17分ないし41分後、合計7回の貫通飛行をさせた。雲の中で記録された線量の最大値は毎時1800ラドもあった。飛行後に二つのカプセルを分析した結果、体外のフィルムバッジが体内被曝によく合っていると判断。乗員には、帰路で機の胴体を裸の手でこするよう命じた。汚染された航空機をいじる地上クルーにどんな危険があるか「正確に評価する」実験の一部だった。
 56年のレッドウィング作戦では原子爆弾と水素爆弾を爆発させた。水素爆弾のほうにロスアラモスのライト・ランガムが手を貸している。キノコ雲を突っ切るとき、肺や食道から体に入る放射能のハザードをつかむ実験だった。パイロットと監視員は、太平洋行きに先立ってロスアラモスに出向かせ、尿と全身の放射能を測った。そのあと乗員は太平洋に飛び、計27回、爆発から20~78分後のキノコ雲を貫通飛行した。最高で毎分800ラドという、とてつもない放射能が観測されている。出撃直後の尿をロスアラモスに送って分析した。(同前p51)
キノコ雲貫通飛行は1962年まで続けられた。パイロットにも地上クルーにも当然のことながらガンなどを発症したものが多いという。そのうちの一人、ハリソンは膀胱と前立腺にガンができているが、次のように語っている。
危険を教えられていたら自分は絶対に試料採取飛行など志願しなかった。「危険だらけだと連中は知ってました。いやなやり口ですね。……合衆国の国民はもう例外なく風下国民です。東の端で核実験すれば、灰は西の端まで行くし、メキシコやカナダにだって行きます。ここから安全、なんて線は引けない。灰は地球をぐるぐる回って、やってきた灰はまた流れていく、そんな状況ができているんですよ」。(同前p52)
米軍兵士たちの無知は、国内向きの関心が強いアメリカ人全体の傾向や教育レベルの問題もあろう。しかし、何よりも政府-米軍の徹底した情報隠しと作為的なミスリードがその原因である。原子力委員会の絶大な権限にひれ伏すマスコミと学者、連邦-州の官僚組織、その背後にある軍産複合体。それらが国民をねじ伏せようとする力は圧倒的なものである。
武器製造者は、仕事を続け、核医学や原子力発電などの新分野を育てるには、核兵器に向けた国民の恐怖心をなくさなければと考えた。それには、「原子は友だち」とか、核エネルギーは体に何もしないとか、攻めの宣伝が欠かせなかった。
宣伝活動はすさまじかった。DOEが公開した大気中核実験計画の紹介フィルムで、軍の担当者は、核実験がどれほど安全か、自由世界を守るために必要か、原子力開発がいかに輝かしい未来を拓くかを力説しまくっている。「むくむくと湧くこの美しいキノコ雲は、かけがえのない友だちです」と、あるナレーターが言っていた。(同前p267)
原子はともだち、キノコ雲はともだち”というかけ声とともに、米軍は核実験をくりかえし、冷戦の相手役であるソ連もそれに倣った。そして、世界中が“風下住民”となってしまった。
日本の動燃(動力炉・核燃料開発事業団)もずっと後に、負けずにバカなビデオを作った。「プルトニウム物語」のプルト君が「プルトニウムを飲んでも大丈夫!」と言う。国際的な批判が出た。動燃の無責任ないいかげんさが良く出ている。(1990年代前半作製か。今はネット上で30秒ほど、櫻井よしこの報道番組の一部として見ることができます。高木仁三郎が正面から批判しないで“軽率な扱い”というコメントをつけたのが、わかります。だが、わが動燃は、それぐらいひどいということを皆が知るべきだ。)

アイゼンハワー大統領の国連総会における「平和のための原子力 Atoms for Peace」演説は、1953年12月8日であった。これをきっかけに、各国で原子力の“平和利用”が進んだ、というのがふつうの20世紀の歴史である。しかし、米大統領が「平和のための原子力」の名文句で全世界を説得することで、アメリカの核の「公式見解」は真実であるとおもわせる、そこにアメリカ合衆国という独善的な国家の秘儀が存在しているのである。
これが、核の世紀であった。

次のグラフは、人類がこれまで経験しているすべての核爆発を示している。広島平和記念資料館のサイトのものです。


国ごとのデータを、示しておきます(北朝鮮は含みません)。
合計数
大気中
地下
臨界前
アメリカ
1053
217
815
21
ソ連・ロシア
737
219
496
22?
イギリス
46
21
24
1
フランス
210
50
160
中国
45
23
22
インド
2
2
パキスタン
2
2
2095
530
1521
44



次の2つは放射性降下物の経年変化のうち、ストロンチウム90とセシウム137のグラフ。いずれも日本での測定値。



1986年4月26日のチェルノブイリ事故の影響が、2つのグラフに現れている。そのことについてはすでに小論(その3)で扱った。(この2つのグラフは測定データで見る「過去の出来事」からいただきました。)

放射性降下物の経年変化については、この分野の第一人者である気象研究所の良い論文環境における人工放射能の研究2003がネット上に出ている(ところが残念ながら、この論文に付属するグラフ類は一般にはダウンロードできない。それ以外の点でも、閉鎖性を感じさせる。気象庁の下にある公的機関の研究なのだから、その研究成果は万民が使いやすいように公開すべきである)。その論文から。
放射性降下物は主として大気圏内核実験により全[]球に放出されたため、部分核実験停止条約の発効前に行われた米ソの大規模実験の影響を受けて1963年の6月に最大の降下量となり(90Sr 約170Bq/㎡、137Cs 約550 Bq/㎡)、その後徐々に低下した。しかし、60年代中期より開始された中国核実験による影響で降下量は度々増大し、1980年を最後に核実験が中止されたので漸くに低下した。1986年4月の旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所の事故により、放射能の降下量は再び増大したが、1990年代になり90Sr、137Csの月間降下量はともに数~数10mBq/㎡で推移しており、「放射性降下物」とは呼べない状況に至った。
チェルノブイリ事故由来放射能の一部は下部成層圏にも輸送されたが、1994年以後の年間降下量は成層圏滞留時間から予想される量を大きく上回り、むしろほぼ一定量で推移する状況(変動幅2倍程度)となった。従って、成層圏以外のリザーバーから放射能が供給されており、それは表土と考えられる。一旦地表面に沈着した放射能は、風によって土壌粒子とともに大気中に浮遊する。この過程が再浮遊であり、大気への放射能の供給源として重要となってきた。再浮遊は、従来、近傍の畑地などからの表土粒子が主体となっていると信じられてきた。しかしながら、降下物の137Cs/90Sr放射能比は、気象研近傍で採取した表土中の同比と値が一致せず、再浮遊には複数の起源のあることが明らかとなった。
他の起源として想定できる地球化学的な現象としては、表土粒子が大規模に輸送される風送塵(黄砂)がある。そこで、この仮説を検証するための取り組みを開始した。最初の試みとして、大陸の砂漠域で90年代に採取された表土につき測定を行い、つくばの土壌と比較したところ、137Cs濃度はほぼ同水準であるが、90Sr濃度はつくば土壌の数倍で、核実験で降下した放射能が降水によって溶出されることなく、残留している様子が示された。また、137Cs/90Sr放射能比は降下物試料での同比に近く、比を利用した2成分混合の計算からも風送塵(黄砂)が放射能輸送に寄与していることが強く示唆された。
チェルノブイリの事故は、核実験ではなく原子炉の事故であった。それゆえ次に、われわれは原子炉が持つ重み(その危険性の度合い)について、核実験と比較せざるをえない。
また、上引の末尾の「黄砂」がふくむ放射性物質の問題は、中国での核実験の実態やその被害にも関心が移る。アメリカだけでなく、旧ソ連の核施設・核実験による放射能汚染が驚くべき悲惨なものであることも、切れ切れに伝えられている。

1953年のアイゼンハワーの「平和のための原子力」演説は、“核の世紀”の仕上であった。なぜなら、これによって本格的に開始された原子力発電は、コントロールしつつ毎日、広島型原発を3発燃やし続けるというような驚異的な巨大技術であるから、その中核に悪魔的な虚偽を含むところの。

















「内部被曝」について  (その5)原子力発電所

5.1原子核分裂
5.2原子爆弾と原子炉
5.3原子力発電
5.4原子力発電(つづき)
5.5原子力発電と放射性物質


「内部被曝」について (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8) 目次 へ





(5.1) 原子核分裂

マンハッタン計画は原子爆弾を3個つくり、ひとつは爆発試験で使い(1945年7月6日、プルトニウム型)、ふたつは広島(同年8月6日、ウラニウム型)と長崎(8月9日、プルトニウム型)に投下した(実際には4個つくられ、もうひとつは戦後の核軍事演習で使われた)。

広島に投下されたウラニウム型原爆の原理をおさらいしておく。というのは、原発の規模をいう場合でも、広島原爆何個分のエネルギーというような比較が良くされるし、原爆と原発は原理的には同じものだからである。
天然ウランはウラニウム-238(238Uと書く)とウラニウム-235(235)の2つの同位元素からできていると考えてよい。前者238Uが99.3%を占め、後者235Uは0.7%とわずかしかない。両者ともアルファ崩壊するし、わずかの確率ながら自己核分裂もする。アルファ崩壊の半減期は前者が44.7億年、後者が7.0億年と非常にながく、したがって放射能としては弱い(この個所の理解を助けるつもりで、高校物理程度の解説をつけてあります。こちらを読んでください)。

ウラニウムが放射能として弱いということと、原爆の原料になったり原子力の燃料になったりすることとが、混同されて、理解がアイマイになってしまうことがあるので、その点を述べておく。
ウランは放射能としては弱いと専門家が述べているところを引用しておく。高木仁三郎がJCOの臨界事故を批判する中でつぎのように言っている。
ウランというのは一般には、強い放射能を出す物質だという意識がふつうの原子力屋さんにはあまりありません。木炭とか石炭と同じような燃料物質だという意識があって、原子燃料ではありますけれども、強い放射能を出している物質だという感覚はあまりないのです。たしかに比放射能(1グラムあたりの放射線を出す量)にすると、ウランは弱いです。そういう物質ですから、放射性物質としては見なさず、軽視するところがあります。天然ウランの場合には特にそうです。(「原発事故はなぜくりかえすのか」著作集第3巻 p350)
ここで言われているウランの放射能というのは、ウランが出すアルファ線についてであると考えてよい(わずかに自発核分裂があるがそれは無視してかまわない)。ウランの半減期が十分に長く、「比放射能」はラジウムなどと比較しても桁違いに弱い(6桁ぐらい違う)。だから油断しやすいのだが、放射能は出ているわけだから、“5,6リットルもの量をバケツで、素手で”扱うというのは論外である。高木は上の続きで、「強い放射能を扱う実験並のことをやらなくてはいけないはずで、ふつうの放射化学屋だったらおよそ考えにくいことです」と言っている。
外部被曝を防護するのは当然のことなのだが、内部被曝については特に危険なので、呼吸や皮膚を通しての吸収を十分に警戒する必要がある。天然のウラン鉱石などでは気体の放射性ラドンを含むので特に注意が必要である。

もう一度述べておく。238Uも235Uも、その原子核からアルファ線を出して別の元素(トリウム)に変わっていくという性質をもっている。この性質(アルファ崩壊という)は非常に長い半減期をもち、単位時間あたりにすると“弱い”放射能といわれるのである。弱くても放射性物質であることには変わりなく、その取り扱いには(とくに内部被曝を)十分気をつける必要がある。
とくに“高濃度のウラン”(後述するが235Uの濃度をたかめたウランをこのようにいう)を扱う場合には“臨界現象”が起こりうるので、総量が問題になる。

ウランの原子核には、このアルファ崩壊という性質のほかに、それとはまったく別の現象である核分裂を引き起こすという性質がある。核分裂は、大きな質量数を持つ原子核が、2つの原子核に分裂する現象をいう。右図は、ウイキペディアから拝借した。
235Uの原子核に、中性子がぶつかったとする。中性子は電気的に中性(ゼロ)なので、強いプラスの電荷を持っている原子核に容易にぶつかることができる(方向が正しくて“的”にあたっていれば)。原子核はいったん中性子を吸収し、質量数を一つ増やした236Uになるが、これは不安定で、図では92Kr(クリプトン92)と141Ba(バリウム141)に分裂する例を掲げている。この分裂の仕方は一通りではなく、様々な割れ方をする。ただ、クリプトンは原子番号36でバリウムは原子番号56で、36+56=92(ウランの原子番号)となっている。これは核が分裂しても陽子の合計数(荷電数)が変わらないことを示している。一定の制約の中で、様々な割れ方をする、ということである。
質量数を見ておこう。クリプトンは92、バリウムは141となっているが、いずれも不安定な核で崩壊していく。92+141=233であり、もとの236Uの236に3つ足りない。この3つは、バラバラの中性子として放出される。図の一番下に3個の中性子が書かれているのはそのことを表している。ウランの核分裂では2~3個の中性子が放出される。

もう一つ重要な点を指摘したい。それは、エネルギーに関することである。核エネルギーというのはどこにあるんだ、ということである。
右図を、式で表せば次のようになる。両辺の質量数の合計と、荷電数の合計は等しくなっている。













235U + n → 92Kr + 141Ba + 3n

詳しく調べてみると、左辺の方(分裂前)が、右辺(分裂後)よりも合計質量が大きいのである。陽子や中性子の個数は増減ないのだが、質量が減っているのである。これを質量欠損という。235Uの核の結合エネルギーが、核分裂によって結合エネルギーの減少が生じ、この質量欠損となったのである。質量 m とエネルギー E との換算式が、20世紀初頭にアインシュタインが導いていた有名な式、













E = mc2

なのである。cは光速度である(c=3.0×108m/s)。
核分裂前の235Uの核の結合エネルギーとしてあった(質量としてあった)ものが、分裂によって核の結合エネルギーが減り、その分だけ解放された(質量がなくなった)。その解放されたエネルギーはどこにいったのか。それは、分裂してできた核(上式では92Krと141Ba)や中性子の運動エネルギーとなる。つまり、分裂してできた核や中性子は猛烈な速さで運動している。とくに中性子は高速中性子とよばれる。

原子や分子の平均的な運動状態は温度で表されるが、核分裂の生成核が高速で運動していることは、とりもなおさず、それが非常な高温の熱源になっているということである。これが、核分裂反応がマクロ世界には熱源としてあらわれること、また、熱源としてあらわれざるをえないことの根源的な理由である。

この核分裂でできた核のもつ運動エネルギーは、150~200MeV程度である。これはアルファ崩壊に比べると数十から100倍大きいこと、通常の原子・分子の世界(eV 電子ボルトの世界)に比べると数千万倍大きいことが確認される。


ここで、核分裂反応について、マクロな尺度(人間の尺度)において、質的に異なる二重の汚染が生じていることを指摘しておきたい。「汚染」というのは、マクロな尺度でピュア(純粋、単純)でないという意味である。ひとつは熱的汚染である。もうひとつは元素的汚染(放射能汚染)である。

熱的汚染とは、高エネルギーの粒子と電磁波が放出されるということ、それはわれわれの通常のマクロな尺度の百万倍から数千万倍の高エネルギーである。このメチャクチャな高エネルギーを持った粒子が原子炉内で生じ、周囲のマクロな物質(炉の構造物や冷却水)にぶつかる。マクロな物体が、その高エネルギーを受けとめた状態が“熱せられた状態”である。受けとめかねて破壊されてしまえば、放射性物質となったり隔壁の脆化が生じたりする。マクロな物体が生物であれば、原爆にあたった人間のように、高熱で焼けたり細胞を壊されたりするのである。
この高エネルギー粒子をマクロな物体が受けとめる過程は終局的には“熱拡散”であり、コントロールすることができない。

元素的汚染とは、核分裂によって新たに生れる原子核が“ランダム”に生じることをさしている。同位体を区別すれば数百種もの原子核が生じるが、その生成過程の本質は量子的確率にある。したがって、きわめて乱雑な種類の元素の混合物が生成される。それらのほとんどは不安定な原子核であって、強い放射能を持つ。それぞれが関係する崩壊系列にしたがって長期間放射能を保つ。これが、炉心の核燃料棒のなかにできて蓄積されていく“核分裂生成物”である。
使用前の核燃料はウランなりプルトニウムなりからできているのだが、原子炉の中で“燃やす”と雑多で強い放射能を持つ元素がどんどん生まれてくるのである。その多くは自然界にほとんど存在していなかった同位体である。しかし元素としては生物になじみのものも多く含まれており、ストロンチウムが骨に、ヨウ素が甲状腺に濃縮沈着してきわめて危険である。
大量に生じる核分裂生成物は、雑多な核種を含みしかも放射性である、という点で、生物にとって深刻な元素的汚染をもたらすというべきである。

20世紀前半に人類が知った原子核分裂という現象は、原子核というミクロな世界の現象であるが、それが連鎖反応という仕組みを通じてマクロな世界に現れてくるとき、熱的汚染・元素的汚染の二重の汚染をもたらす。この発熱と放射能の二重の汚染は、核分裂の量子的偶然性に深く根ざしていて分かちがたく絡み合っている。汚染というのはマクロな尺度でピュアでない、という意味であって、マクロな尺度に生きている人間は汚染をコントロールすることができない(エントロピー増大則に従うしかない)。
人類は、原子核分裂を“平和的”に利用することにはいまだ成功していない。こんごも成功することはおぼつかない。核分裂をもてあそび始めた人類が1世紀足らずの間にやったのは、原水爆(その製造と爆発)と原子力発電所によって地球上を放射能で汚染しつつあるというだけである。


(5.2) 原子爆弾と原子炉

アルファ崩壊に関しては半減期の違いしかなかったが、核分裂に関しては、238Uと235Uは、まるで、異なったふるまいをする。
ウランに対して、中性子を打ちこむ。アルファ線はプラスの電荷を持っている。ベータ線(電子線)はマイナスの電荷を持っている。これら、電荷を持っている粒子は物質の中にはいると、原子の周りを取り巻いている電子(マイナス)や原子核(プラス)の電荷と強く反応しあう。それに対して、中性子は電荷を持たないので、電子や原子核の電荷に影響されずに、原子核の中に飛びこむことができる。つまり、中性子線は原子核変換を引き起こすような実験に最適なのである(それに対して、アルファ線はプラス電荷同士で反撥して、原子核へ飛びこむのは難しい)。

上の図に表されているように、中性子が235Uの原子核に飛びこむと、核全体が不安定になり2つの原子核に分裂する。その際に2,3個の中性子も出る。質量数が半分程度の2つの新しい原子核と2,3個の中性子は高速で分かれる。これが核分裂である。
実際には、235Uに核分裂を起こさせる中性子は、速度の遅いほどよい。高速の中性子(1MeV程度)は物質の中を走りながら原子核に衝突し(飛びこまない)徐々に速度を落とし、最終的には周囲の原子・分子の熱運動と平衡状態に達する。この状態になった中性子を熱中性子という(常温で0.025eV程度のエネルギー)。このことも重要な事実なので、記憶しておいて欲しい。遅い中性子ほど235Uに核分裂を起こしやすい。これが、原子炉で減速材が重要な意味を持つ理由である。これは、後に述べる。

これに対して、238Uは中性子を吸収しても核分裂を起こさない。代わりに、いったん239Uとなり、それがベータ崩壊(電子を出す)して239Np(ネプツニウム)になり、更にそれがベータ崩壊して239Pu(プルトニウム)ができる。













238U + n  - - - - →  239Pu

要するに、238Uは、中性子()を1個吸収して、239Pu プルトニウムとなるというわけである。これが、人工的な新元素プルトニウムの誕生である。(厳密に言うと、最初に人工的につくられたプルトニウムは238Puであった。それは、重水素の原子核(陽子+中性子の各1個づつが結合している)を238Uに加速器で打ちこんでつくられた。重水素の核は正電荷を持つので、加速できるのである。実際の原子炉内では、様々な過程が同時進行しているので、239Pu以外の様々な同位元素も生まれる。
239Puは半減期2万4400年でアルファ崩壊する(プルトニウムの同位体は15種知られているが、すべてが不安定で、アルファ崩壊するもの、ベータ崩壊するものがある)。後に述べるが、この239Puがアルファ崩壊する性質こそが、プルトニウムが体内に入った場合の有害性の根源である。プルトニウムは化学的にも非常に複雑な性質を示すが、やっかいなことに、空気中で自然発火する。プルトニウムの取り扱いはすべて「グローブ・ボックス」という、手袋を介して操作する密閉容器のなかで行われる(プルトニウムには放射能以外に、重金属としての毒性(化学的毒性)もある。“ダイオキシンより怖い”とか“人類の生みだした最強の毒”という言説もあるが、それは疑わしいともいわれる)。
コロラド州デンバーは大都会であるが、それからわずか25㎞西方のロッキー・フラッツに米軍のプルトニウムを扱う大規模な工場が秘密裡にできたのが1953年であった。その工場で、グローブ・ボックス内のプルトニウムの自然発火に始まる大規模火災が、1957年9月11日に起こった。この火事で燃えたプルトニウム(ガス化して環境に放出されたプルトニウム)は14~20㎏とも、250㎏ともいわれる(『被曝国アメリカ』p261)。少ない見積りでも長崎原爆の2個分、多い方では2,30個分となる。(なお奇しくもこの火災は、チェルノブイリ以前で最大の放射能事故といわれる「ウラルの核惨事」の起こる20日ほど前である。

239Puの最大の特徴は核分裂するということである。238Uは核分裂せず、原爆材料にも原子炉の燃料としても使えないのであるが、それが中性子を吸収すると239Puとなり、核分裂物質となる。
すなわち、天然ウランの大部分を占める238Uは中性子の飛び交う原子炉の中に入れておくと、燃料として使える239Puに、自動的に転換しているという実に好都合な話が成立する。このことは、マンハッタン計画の当初から知られており、シカゴ大でエンリコ・フェルミの実験炉=パイル原子炉で臨界を確認したあと(1942年12月)、西海岸にそそぐ大河コロラド川の上流のハンフォード(ワシントン州)にプルトニウム製造用の原子炉と分離工場がつくられ、原子炉の冷却水はコロラド川にそのまま放出、遠隔操作する分離工場で出る気体はそのまま大気中へ放出という荒っぽいやり方でキログラム単位のプルトニウムが生産された。
このプルトニウムによって、トリニティ実験と長崎原爆投下とが行われた。実際に使用されたプルトニウム量は不明らしいが、10~8㎏ぐらいとされる(臨界量は5㎏という。ただ、爆縮型の爆弾なので、2㎏ぐらいまで少なくできるともいう)。

広島型の原爆は、核分裂する235Uを高濃度(90%以上という)にして、臨界量以上をあつめれば核爆発が生じる。広島原爆は60㎏の高濃度ウランであったが、実際に核分裂したのは0.8㎏程度と推定されている。残りは、核分裂せず吹っ飛んでしまった。爆弾の中で核分裂が始まるとその個所が局所的に高温高圧になり、急激に膨張しようとする、すなわち爆発である。局所的に爆発が起これば核分裂が伝播しないままばらばらに飛散してしまうことになる。

原子爆弾は爆発前には、ウランなりプルトニウムを臨界量以下に小分けにしておく。小分けのままならけして爆発しない。その小分けにしたものを通常爆弾で一度に一所に集中させると、臨界量を超えて核分裂の連鎖反応が開始する。この通常爆弾が原爆の“引き金”である。開始した連鎖反応が持続する(といっても1万分の1秒間ほどだが)ためには、局所的に開始した連鎖反応による高熱が爆発的な高圧を発するが、それを“引き金”の通常爆弾による爆発圧力で拮抗させて押さえ込んでおくのである。その短時間の拮抗状態の間に効果的に核分裂の伝播を実現するのは、難しい数理的問題であった。特に、プルトニウム型の爆縮で、フォン・ノイマンが研究したといわれる。
長崎原爆でも、核分裂せず飛び散ったプルトニウムの残存を爆心地から3kmはなれた西山地区の土中で「予想したよりはるかに多量」に発見した、と岡崎俊三教授が1980年に発表している。「とくに、沈積プルトニウムの76パーセントが、地表から10センチのところに濃縮しているのが気になります」と警告している(『被曝国アメリカ』p60)。


天然ウランに含まれる核分裂しない238Uが99.3%と圧倒的に多く、235Uはわずか0.7%しか含まれていない。そのために、広島原爆を造るのに最初にする必要があるのは、235Uの濃度を上げる作業である。これが容易ではない。なぜなら、235Uと238Uの違いは原子核の重さの違い(その差も1.3%ほど)だけで、化学的性質はまったく同一であるから化学的な方法で分離することはできない。重さの違いに頼る物理的方法だけである。ガス拡散法・遠心分離法・電磁法など考えられたが、マンハッタン計画では電磁法が使われている。真空の中で電磁石によって磁界をつくり、その中にウランを細いビームにして吹き込むと曲がり具合に差が出ることを利用した。いずれにせよ、この濃縮作業は大規模なものであり、きわめて多量の電気エネルギーを必要とする。

マンハッタン計画は米軍の軍事計画であり、2種の原爆(広島=ウラン型と、長崎=プルトニウム型)を創り出し・使用して、軍事計画としては大成功であった。だが、軍事計画の中ですべてが進行したために、原子核物理とそれを支えた巨大科学・技術の成果が秘密のベールに蔽われていた。その成果を一手に握って、戦後世界のヘゲモニーをとろうと考えていたアメリカにとってショッキングな出来事が、ソ連が1949年に原爆実験に成功したという事実である。核技術のアメリカ独占がわずか5年足らずで消滅したことと、核兵器をめぐる米ソ対立が鮮明になったという意味で、この事実は重要である。
原子力をめぐるこの新しい情勢のなかで、アメリカの“核管理的な世界戦略”を打ち出そうとしたのが、アイゼンハワー米大統領の1953年の国連演説「平和のための原子力 Atoms fo Peace」である。米ソ対立の世界で米国中心に核管理を行っていこうとするものであり、いくつもの変遷をとげながら、NPT条約とかIAEA査察とかにおいて、現在までその世界戦略が生きている。

広島型の原爆を“ゆっくり”燃やすようにしたのが原子力発電のための原子炉である(“ゆっくり”というのは“制御できるようにして”という意味であって、けして、“少量燃やす”ということではない。後に示すが、100万kWの原発は広島原爆を毎日3,4個燃やしている計算になる)。
アメリカでは、1940年代の初め頃から原子炉が使われていた。主に、長崎や広島に落とされた原爆用、また、その後の実験用核爆弾のプルトニウムをつくるのに使われていたのである。ところが、工程の副産物として、大量の熱がつくり出される。この熱を水の加熱に使い、出てくる蒸気をタービンを回すのに使えば、発電ができる。原子には無限の力があるのだから、原子力で発電すれば、電気のコストが無限に安くなるのではないか。原発支持者の言葉をかりれば、「メーターを付けなくてもいいほど安くなる」のではないか……というわけで、ここに、新しい産業の誕生となったのであった。(『被曝国アメリカ』p316)
燃料のウランは天然ウランそのものではなく、それに含まれる235Uの濃度を3~5%に高めたものを用いる。これを濃縮ウランという。残余のカスを劣化ウランというわけだ(劣化ウランは通常235Uが0.2%ぐらいになっている)。ところが、その燃料の濃縮ウランの95%ほどは238Uなのであるから、原子炉が運転されると徐々に239Puに変わっていく。核分裂性のプルトニウムができてくるというのだから、それに着目しない手はない、というのが歴史的に見て、原子炉製造当初の展望だった。
長崎型の原爆を“ゆっくり”燃やすのが、高速増殖炉ともいえる。プルトニウムを炉心に入れて燃やし、発生する高速中性子を炉心を囲む238Uに吸収させて、プルトニウムに変換していく増殖炉である。実際、最初に建設された実験用の原子力発電所は、アメリカのアルゴンヌ研究所の高速増殖炉(1951年、ナトリウム-カリウム合金を冷却材)で、200kwの発電に成功している。

軍事計画として始まった原子力が、次のステップとして、原子炉によって発電するという段階にむかった。原子力発電である。その曲がり角がちょうどこの、1953年のアイゼンハワー演説だったのである。
「平和のための原子力」が叫ばれていた頃、放射能の恐ろしさは学者の間では知られていたが、一般市民には原子力委員会や軍の権威筋による「健康にはなんの心配もありません」という根拠のない安請け合いや、意識した嘘が容易に信用されていた。有力マスコミは原子力委員会や政府の意向をうけて、良心的な学者や勇気ある民間人の発言を封じ、歪曲し、中傷した(謀略を伴った、アメリカ社会のこういう傾向は、歴史的に一貫して見られるとわたしは考えている。その点は、劣化ウラン弾を扱う際に再考しよう)。

原爆・水爆の多数回の実験は、20世紀後半を通じて行われた。それはそれで、地球全体の放射能汚染をもたらした。しかし、原子力発電は、それとは比べものにならないほどの放射能の巨大蓄積をつくりだし、「平和のための原子力」は地球規模の日常的な放射能汚染をもたらした。そして、人類はガンの容赦のない漸増を、運命のように知ることになる。


(5.3) 原子力発電

原子力発電の歴史の、各国の初めの頃の実用炉を主に取りあげてみる。

1942アメリカ、シカゴフェルミのパイル炉、黒鉛・ウラン実験炉
1951アメリカ、アルゴンヌ研究所高速増殖炉、Na-K合金を冷却材
1953/12/8国連アイゼンハワーの「Atoms for Peace」演説
1954ソ連、加圧水型、黒鉛・加圧水型、初めての実用炉
1956イギリス、コールダーホールガス冷却型、営業運転
1957アメリカ、シッピングポート加圧水型、ウエスティング・ハウス社
1960アメリカ、ドレスデン沸騰水型、GE製の初号機
1964フランス、ガス冷却型
1966日本、東海村ガス冷却型、イギリスから導入


前述のようにアメリカは、最初は高速増殖炉に力を入れていた。マンハッタン計画の当初の頃から考えられていた“夢のエネルギー、原子力”というイメージにもっとも近いのがこの増殖炉であったからであろう。燃料であるプルトニウムを燃やすほど、プルトニウムが増殖するという“夢のような”炉であるから。「高速」というのは、高速中性子を用いて、238Uに吸収させるという意味の高速である。そののち高速増殖炉は技術的な困難さから放棄され、フランスと日本が現在まで残っているが、将来展望はない。
現在は原子炉内部から熱を取り出すのに水(軽水、重水)を使う型が普及しているが、イギリスを中心にガス冷却型(炭酸ガスを使う)が用いられた(イギリスでは現在も使用されている)。

ソ連が原子力発電に意欲的に取り組んでいたことも注意して良い。その一方で、共産党独裁政権の秘密主義のため、ひどい放射能汚染があったこと、またいくつかの(チェルノブイリ以前の)原発事故があったことなどもいまだ十分に明らかになっていない。
「ウラルの核惨事」ないしは「キシュツィム事故」として知られる1957年の放射能廃棄物タンクの爆発は、廃棄物管理がずさんで、タンク内でプルトニウムが臨界事故を起こしたと考えられているようである。この事故を最初に西側に伝えたジョレス・A・メドベージェフの『ウラルの核惨事』(原著1979)(技術と人間 1982 梅林宏道訳)は、専門的な論文の解読が中心で、難解である。中国新聞ののマヤーク核施設を推薦する。
ソ連の「原子力の平和利用」については、同じ「核時代 負の遺産」の「ベガ」平和目的地下核実験が貴重である。核爆発で土木工事ができると考えた連中は、「放射能の影響など意に介さず」、「核物理学者らは、だれのチェックも受けずに、自分の思い付きを次々と実験していった。結局、どれ一つ成功しないまま残ったのは健康障害と何百年にもわたる放射能汚染だけだよ」、これは中国新聞の記者を案内した地質学者ゴルボフの言葉である。
アメリカも五十歩百歩であることは認識しておく必要がある。アメリカは原爆で土木工事はしなかったが、ウラン鉱山・核実験場・核兵器工場・原子力発電の周囲での放射能汚染はヒドイものであり、太平洋で核実験をくりかえし、しかも、原子力委員会は「心配するほどの健康への影響はない」と言いつづけた。

1950年代から60年代にかけて、原子炉について様々な取り組みがなされていたこと、その試みのうちには見込みが無くてのちにあきらめてしまわれたようなものもあった。原子炉は放射能という危険性をもち、絶えざる“暴走”の可能性をはらみ、しかも人類が初めて取り組む巨大技術であった。軍事技術と裏腹の関係にあった原子炉は、その安全性や商業性が十分に検討される間もなく、未熟な状態のまま実用運転が開始されていった。

原子炉は、ウランあるいはプルトニウムを燃やして(核分裂を連鎖的に起こさせることを、通常、“燃やす”と言っている。発熱する自律的現象であるから、日常的な“燃焼”である酸化反応の場合を拡張して使っているのである)熱を出させる仕組みであるが、原子爆弾と違って“制御しながら”燃やすことが必至である。そのために、つぎの5要素が必須となる。
  1. 燃料:燃料棒、金属製の鞘にウランやプルトニウムを封入する。この燃料は、中性子によって燃える。したがって、適当な濃度で中性子が炉心に充満していることが必要。
  2. 減速材:高速中性子の速度を落とし熱中性子とする。高速中性子で運転する高速増殖炉には、ない。
  3. 冷却材:中性子を吸収しない水や炭酸ガス、高速中性子を減速させない液体ナトリウム。これは炉心から熱を外部へ出すために、たえず循環運転される。
  4. 制御系:制御棒、緊急冷却装置、各種パラメータ計測装置、それら全体のための電気系。
  5. 炉容器:圧力容器、建屋など、放射性物質の環境放出を防護する設備。
まず「燃料」についてであるが、これは燃料棒の中で、中性子を吸収して核分裂を起こすのである。中性子が(適当な濃度で)あれば燃えるわけだが、やっかいなのは、その中性子はどこか炉の外から供給されるのではなく、まさに燃料の核分裂によって生みだされるものを(減速して)使う、ということなのである。そのため、核分裂が盛んになれば中性子の発生も増え、ますます激しく核分裂が起こるという傾向を常に持っている(原爆の場合はこれが瞬時に起こる)。(重油を燃やすボイラーでは空気を絶てば燃焼は止まるが、原子炉はそうはならない。
原爆のような極端な場合に至らなくとも、制御が不充分であったら炉心の温度がどんどん上昇していく可能性が常にある。燃料棒が溶け、燃料が溶ける、という温度まで容易に上昇しうるのである。したがって、十分な制御によってこういう事態に至らないように、つねに、コントロールしている必要がある。

つぎに「減速材」である。中性子を吸収しない安定な物質であればよいので、通常の水(軽水)や黒鉛が使われることが多い。黒鉛はフェルミのパイル炉で使われたので印象深いが、実用炉でも使われている。核分裂で生じる高速中性子を減速して燃料のウランやプルトニウムに吸収されやすい低速の中性子(熱中性子)にする役割である。

冷却材」は、原子炉を構成する重要な要素であるのだが、なんとなく副次的な役割のような認識をされることがある。それは、まったくの間違いである。炉心部から排熱することは本質的に重要である。なぜなら、炉心部では、運転中は猛烈に発熱しているから一瞬でも排熱がとまれば温度の急上昇をまねき炉心溶融につながる。ところが、運転を停止しても放射性廃棄物が燃料棒の中に生産されており、それが発熱しているので、ひきつづき排熱が必須である。運転中の発熱はもちろん核分裂によるものだが、運転停止後の発熱は原子核崩壊(アルファ崩壊、ベータ崩壊、ガンマ崩壊などの)によるものである。それで後者を「崩壊熱」という。(高木仁三郎著作集第2巻の「反原発、出前します!」にはこの問題がきちんと書いてあります(p241~)。日本の大型原発は100万kWですが、これの発熱量は3倍の300万kW程度です。仮にこれを制御棒を入れて(正常に)停止させたとすると、1時間後に数%の発熱が残っています。2%とすると6万kWですね。ちいさな発電所くらいになるわけです。制御棒で停止させたといっても、通常の感覚では“止まっていない”のです。この発熱がなかなか減りません。1ヵ月経って0.1%程度です。1年後で0.07%程度。その間、ポンプを回して冷却は持続していないといけないのです。)何らかのトラブルで運転停止した場合、この排熱の循環系が正常でない場合があり得る。たとえば電源の不調など。そういう場合にトラブルが深刻化する可能性があるのである。
じつは、冷却材をこのように説明すると、原子炉の否定的な面をカバーする役割のように誤解されるかも知れないが、そんなことはない。この冷却材こそが原子炉の唯一の肯定的役割を担っている。炉心から熱を持ちだしてくるので、それを用いてお湯を沸かしてタービンを回して発電をするのである。
つまり、原子炉を運転するためには、冷却材を循環させて炉心から排熱することが必要であり、その廃熱を利用して発電するのである。日本で普及している軽水炉では、炉心から出てきた冷却材(一次水、加圧されて300℃ぐらいになっている)によって2次水を加熱して蒸気をつくりタービンを回す。そのことによって、一次水は温度を下げて炉心に戻るのである。この循環運動を、強力なモーターによって瞬時も休むことなく続けている(100万kWの原発で、毎秒23トン程度の水を循環している。すこし議論が細かくなると思い、こちらにやりました。燃料ペレットのすごい温度勾配まで紹介していますので、覗いてみてください)。そして、この循環運動は、タービンを回して発電をするために必要だが、炉心溶融を防ぐという意味で原子炉にとって必須なのである。

この説明で分かるだろうが、原子力発電というのは、じつに回りくどいエネルギーの利用法なのである。核燃料は燃料棒の形で炉心にあり、運転を始めるとそれの発熱は止まらなくなる。その排熱の循環系を冷却するために、タービンを回す2次系の循環系に熱を移動してそれを利用する。2次系が止まると、1次系の冷却ができなくなるので排熱が止まってしまう。これは、原子炉にとって本質的なトラブルとなるのである。
この回りくどい利用法のため、エネルギー効率はせいぜい30%ほどである。したがって、100万kWの原発では、300万kWの発熱をしている。電気エネルギーに変換されない200万kWの熱は、大量の水で排熱して環境へ放出する。したがって、熱汚染が重大問題なのである(日本の場合は、海へ温水を放出している。放射能と同様、“薄めて”放出すればいいという犯罪的な発想が法的に許されている)。
火力発電は燃料の供給を調節して、電力生産を調節することができる。もちろん、燃料を止めれば発電も止まる。原子力発電はそのような調節がいっさいできないのである。そのような“原子力国家”はエネルギー多消費型になる。(日本の電力会社は“電力の3分の1は原子力です”などと言って有り難がらせているが、原発は電力の調節ができないコマッタちゃんなので、目一杯運転しつづけるしかないのである。真夏の消費電力のピークに合わせて発電していて、電力の調節が必要なところは火力発電などで行う。全国に自動販売機を置き、夜間照明を奨励し、ライトアップがいいことのように錯覚させ、クリスマス近くなるとおバカな庶民にイルミネーションを飾らせる。“夜間の安い電力”を使いなさい、というような宣伝をしているが、バカげている。不要な電力の使い道がないので電力会社が困っているだけなのだ、発電を減らすことができないから。その究極は「揚水ダム」で、あまった電力で水を汲みあげておいて、必要なときに水を落として発電するという。バカ野郎!

原発の制御系について。制御室のたくさんのメーターやボタンが並んだ写真を見て、きっとコンピュータできちんと制御されているんだろう、と考える。正常に動いているときはその通りなのだが、制御室で何もかにも分かっている(パラメータを採ってきている)と考えるのは間違いである。また、コンピュータをプログラムするのは、その段階で既知のデータや事故をもとにして行うのであるから、“想定外”の事故が生じればプログラムは対応できない(誤動作したり、判断できないと応える)。
スリーマイル島(TMI)の事故(1979年3月28日)の総括をした後で、高木仁三郎は次のように述べているが、妥当で穏当な判断だと思う。
事故時の制御室の状況を想定すれば、むしろそれは、きわめて誤りを誘発しやすい世界である。TMI-2号炉の制御室では、事故発生からしばらくすると、何百という警報が発せられ、コンピュータは役に立たなくなった。温度計の読みには???が続き、運転員は今までに訓練されていない事象に対処しなくてはならなかった。人間の能力を越えたような情報量が、目の前にあったのである。しかも運転員は、原子炉の中がどうなっているか直接にみるすべをもち合わせず、数々の情報の総合によって判断するしかなかった。後から検討すれば、確かに最善ではなかった措置もあった。しかし、別の事故が起これば、再び同じことがくり返されるだろう。しかも、総体として、TMIの運転員たちは「よくやった」のである。(「プルトニウムの恐怖」第2章から、著作集第4巻p168)
ネット上で中尾ハジメ『スリーマイル島』という本を Free で読むことができる。わたしはプリントアウトして読んだが、A4で88頁。スリーマイル島事故の数ヶ月後、調査にでかけ周囲の住民の様子をレポートしている。決して読みやすくないが、市民はとまいどながら、結局たいしたこともできずに時を過ごしてしまう。大爆発が起きたわけでなく、目に見えぬ放射能がひろがったとしても即死者がでたのでもない。しかし、奇妙な“金属的な味”を感じた。猫が死産をくりかえし、家畜が繁殖しなくなった。自動車でハトをしいた経験を持つ人が無数にいる。事故の技術的解明ではなく、周辺を取り巻く住民の迷いと苛立ちと不安に焦点を当てている。電力会社・原子力委員会・政府が一体になって、事故の真相を知らせないよう住民を押さえ込もうとしている。その理不尽で見通せない圧力が描かれている。中尾は現在、京都精華大の学長。

圧力容器などの金属の中性子線による脆化現象(ゼイカ。急冷されたような場合、モロくなる)については、桜井淳『原発のどこが危険か』(朝日選書1995)が良かった。この本は、一般に原発の巨大な構造物としての存在感をよく伝えている好著だと思った。
「緊急炉心冷却装置 ECCS」というものがあるが、炉心温度が上昇して燃料棒の破損・溶融などの事態が考えられる非常事態に、炉心に水を掛けて冷やす装置。老朽化した原発でこれをやると、圧力容器が脆化していて、亀裂が生じる危険性がある。破壊してしまう可能性もある。つまり、ECCSがあるから安心だ、とは言えないのだ。このことも含めて原発の耐用年数の問題も、深刻である。



ここまで、放射能問題には触れずに、主として原発の熱交換システムの面を扱ってきた。最後にもうひとつ、加圧水型原発でどうしても取りあげないわけにはいかない重要なものは蒸気発生器である。

これは、一口で言って、1次水と2次水の間の熱交換器である。だが、ものすごく巨大なもので、原子炉の本体の圧力容器よりも大きなものである。右図は、三菱重工のサイトからいただいた。この図も、なんだかよく分からないが(頭に入りやすい概念的な図がどのサイトにもおいていない。企業は立派そうな図を掲げたがる)、1次水が下から入って細管に分かれて、ぐるっと回ってU字部を通りまた下に戻ってくる。2次水はそれを取り囲んで浸している。2次水は1次水によって加熱されて沸騰し、蒸気は上から出る。

この図の場合のサイズは、高さ21m、直径は3.9~5.1m、重量は440トン。高木仁三郎が“まっこうクジラ”とニックネームされる、と言っていたのが分かる。しかも、1次水が流れる細管(これは伝熱細管と呼ばれる。図の黄金色の部分。細く1本だけ描いて、他は断面図にしている)は、外径19.1㎜、肉厚約1.1㎜という繊細なもので、これが図の70F-1型では5830本ある。

細管の内部を通るのは1次水で、157気圧で加圧されている。この凄い圧力によって300℃を越える高温でも、水は液体のままにとどまっているのである。圧力が下がるとすぐ沸騰しはじめ、気泡が生じる。この細管を取り巻くのは2次水で、これは63気圧である。これも凄い加圧なのだが、細管内の熱い1次水に熱せられて沸騰するのである。この蒸気発生器の中では、高温高圧の熱水流と沸騰の振動とで、“地獄の釜”の様相を呈している。
細管には内外の圧力差が94気圧もあるが、それを肉厚約1.1㎜で支えている。そして、その薄い肉厚を通して莫大な熱が2次水に伝えられるのである。発生した多量の水蒸気は不要な水分を除かれて(63気圧という高圧)、発電機のタービンへ導かれる。

1次水には、正常な運転状態でも、内壁の剥がれた断片や錆などが紛れ込んでいっしょに循環している。これらは強い中性子線を絶えず浴びているので、放射性を持っている。1次水と2次水が㎜単位の管壁で接する蒸気発生器では、ピンホールが開いただけで強大な圧力差で2次側にただちに放射能漏洩が生じる。右図の70F-1型では管壁の面積総和が6500平方mになるという。これは東京ドームのグラウンドの丁度半分の面積である。その面積でピンホールを探さないといけない。検査といっても、容易ならざるものであることが分かる。大型原発ではこのような蒸気発生器が4基装着される。(有名な、美浜2号機の事故(1991年)は当時日本で最悪の原発事故といわれた。伝熱細管が破断し、1次冷却水55トンが2次側に出た。ECCSが作動して原子炉が緊急停止した。細管破断の直接の原因は振動止め金具の取り付けミスによる細管の疲労破壊。日本で初めてECCSが作動した事故だった。)

原子炉の排熱システムが、原子炉にとって本質的に重要であることと、熱交換を薄い金属隔壁で熱伝導で行うというのがきわめて危うい仕組みである、この節ではそういう問題をあつかった。


(5.4) 原子力発電(つづき)

100万KWの原子力発電所というのが、現在日本の大型原発1基の標準的な規模である(ウィキペディアによると、浜岡5号機が日本最大で138万KWという)。これはもちろんその発電所で100万KWの電力を発電しているという意味であり、エネルギー効率はせいぜい30数%なので、もとの原子炉の発熱としては300万KWか、それ以上は必要であるということになる。この発熱で水蒸気をつくってタービンを回して発電している。
数字が分かりやすい方がいいので300万KWにするが、300万KWの熱を出し続けるのにはウランをどれぐらい使うものだろうか。目安となる計算をしておこう。
ワットとは、W=J/sであった。つまり、毎秒出し続けている熱量をJ(ジュール)であらわしたものである。
300万KW = 3×109
すなわち、この原発では毎秒3×109J(ジュール)の熱量を発生している、ということになる。
この熱量を広島原爆のエネルギーと比較してみる。ふたたびウィキペディアを参照すると、広島原爆は“TNT15キロトン”相当としてある。1万5000トンのTNT火薬ということだが、このTNT火薬への換算は1グラムあたり1000カロリーとする取り決めなのだそうだ。1トン=106グラム、1カロリー=4.18ジュールを用いると、15キロトンのTNTの発熱量は
15×103×106×1000×4.18  = 6.27×1013 ジュール
この広島原爆熱量÷原発熱量を計算すれば、広島原爆の1発分を何秒で発熱するかが出てくる。
6.27×1013 ÷ 3×109 = 2.09×104 秒 = 5.81 時間
これは、約6時間だから、100万KWの原発は広島原爆を6時間かけて燃やすぐらいのエネルギーの出し方をしているということになる。1日で4発、1年で1500発。

第1節で核分裂における熱汚染と元素汚染の二重汚染という概念を出しておいたが、それに沿って考えると、発生した熱量のうち電力に変換されるのは3分の1ほどで、残りの3分の2は排熱として環境に捨てる他ない。温水を大量に海に放出し、巨大エントツから排気する。沿岸生物環境を熱汚染しているのである。
もっと深刻なのは、元素汚染のほうである。強い放射能を持った雑多な元素の集合物が生成されている。毎年広島原爆1500個分ぐらいの“死の灰”ということだ。これはいずれ、何とかしないといけないのであるが(使用済み核燃料の問題)、ともかく、大型原発1基から1年にこれぐらいの放射性廃棄物が生まれてきてしまうのである。見落としていけないのは、これが原発1基が生みだす放射性廃棄物である、ということである。浜岡だけで5基ある。
原子力発電所の運転状況という面白いサイトがある。「日本原子力技術協会」という推進派のつくっているサイト。“本日の運転状況”では合計55基のうち発電中34基、停止中21基などと示されていて、更に詳細もわかる。
この55基の原発の出力の平均は85KWほどらしいが、これら全部が稼働したとすると、4個×0.85×55 = 187個。すなわち、日本全体で連日広島原爆の190個分の放射性廃棄物が出ることになる。6割の稼働としても広島原爆110個分程度になる。年に4万発程度(京都大学の小出裕章は「広島原爆約5万発」と言っている。厖大な核のゴミの始末のつけ方


原子力発電を行うと膨大な量の放射性廃棄物が生じることを述べた。その放射性廃棄物は燃料棒の中に蓄積していく。放射性廃棄物が燃料棒の中に段々増えていき、燃焼の特性が変化し、炉の運転に不安定性をもたらすので、ある程度燃やすと、廃棄して新しい燃料棒と交換する。100万KW原発では1年間に30トンの使用済み燃料がでるという。

このように、原子力発電所には大量の放射性廃棄物が炉心に蓄積されているということの直接の恐怖は、大事故があった場合どうなるだろうという恐怖である。この不安感はどうしても消えない。
事故を起こしたチェルノブイリ原発は熱出力320万KWであり、ちょうど、われわれがここで大型原発として考察してきた規模のものである。フル稼動しておれば、1年に広島型原爆1500個程度の放射性廃棄物を蓄積している。それの数年分を蓄積した状態で暴走・爆発したのである。蓄積した放射性廃棄物の相当の割合が放出されたと考えられる(気体はほぼすべてが)。原子力発電所の巨大事故が、いかに深刻であるか、よく考える必要がある。

原子力発電所は、運転を始めると大量の放射性廃棄物が炉心に蓄積される。これは原理的にそうなっているのであって、避けることができない。その量は広島型原爆の“死の灰”の数千発分と見積もられる。それを外部に漏洩しないように運転をつづけるという、危うい巨大システムなのである。万一、大事故があった場合、そこから放出される放射性物質は地球全体を放射能汚染するほどの量であり、その汚染は人間尺度ではいつまでも続くといっていい。














♪♪  安全といわれて安心か原子力    き坊
それでは、事故がなければ「安全」なのか。
平常運転が行われている状態でも、放射性物質はたえず環境に放出されている。推進派は、「ごく少量であり、しかも充分安全であることが分かっている程度まで稀釈してある」という。この場合、常に比較される基準が2つある。ひとつは「自然放射能」であり、もうひとつは「医療用X線」である。

地球の歴史で、すべての生物は自然放射能のレベルがある程度下がってきてはじめて、精巧で微妙な生物分子の形成にこぎつけ、そのあとの長い進化の果てに、やっと生存が可能になったのである。したがって、自然放射能も有害なのである。できたら、自然放射能もない方がよい。理由は明らかで、生物分子が働いているエネルギーは、せいぜい数電子ボルト(eV)であるが、自然放射能はすべて(ラジウムなどの)原子核から出てくる放射線であって、その百万倍(MeV)というとてつもない強烈なものであるからである。安定的な元素の世界(原子核が安定である世界)においてはじめて生物の世界がありうる。
したがって、自然放射能のレベルの放出だから安全だというのは、急激な障害は出ないでしょうということであって、その放射能もけして望ましいことではない。百万倍も強烈な放射線は、それがただの1本であっても体を貫けば、致命的になりうるのであり、生物にとっては、少なければ少ないほどよい。

医療用X線との比較をもちだすことによって大衆の不安をなだめようという発案は、1953年にアメリカの原子力委員会に出されている。1953年6月10日のアメリカ原子力委員会の議事録に、ヘンリー・スミス委員が、核爆弾がもたらす放射線を「通常の医療用X線から生じる放射線」になぞらえることによって社会的不安もなだめられるのではないか、という意見を出しているという(『被曝国アメリカ』p129)。これは、もちろん、ガンマ線による外部照射だけの類似を述べているだけで、体内被曝にはまったく触れていないまやかしであり、「ずっと何十年にもわたり、原子力委員会が、原子力規制委員会が、そして原子力発電所を経営する電力会社が、好んで広報上活用するごまかしの手段になるのである(p129)」。これは、ガイガーカウンターの数値だけでは、放射能の危険性のごく一部しか把握できないというふうにもいうことができる。

平常運転でも放出が避けることができない放射性物質には、クリプトンやキセノンなどという希ガス類と、トリチウム(3重水素)が水の中に入っていることなどが、原理的にある。前者(希ガス)は排気として、後者(トリチウム)は排水として環境に出される。
原発ではきわめて多数のモーターやポンプを使用している。ポンプの回転軸からの液体漏洩は避けられないが、それによる恒常的な放射性物質の環境への放出は、原発全体としては無視できないものになる。
日常的に生じている小事故やミスなどによる放射性物質の環境への放出は、当然これらとはべつに、生じる。

現在の原子力発電所の運転規則では、放射性物質を環境へ放出するさいには、十分稀釈して放出することが義務づけられている。「原子力図書館 Atomica」の説明を参照してみる。これは「日本原子力文化振興財団」なるところの厖大なサイトであるが、推進派のサイトであることを承知して利用することが必要。
実用発電用原子炉の運転に伴い発生する放射性気体及び液体廃棄物については、それぞれの廃棄物処理設備により濃度及び量を低減するための処理を行い、気体及び液体廃棄物の一部については「線量目標値」に関する指針で年間0.05ミリシーベルト(5ミリレム)以下を満足するように年間放出管理目標値が定められており、放射能レベルを監視しつつ、周辺環境に排出されている。
 気体廃棄物については、その発生源に応じて分離回収し、ガス減衰タンク等に貯留して放射能を減衰させた後、さらに粒子状のものについては高性能エアフィルタによりろ過し、ガス状のものについては活性炭フィルタにより吸着し放射性物質の濃度を監視しながら排出されている。
ここに書いてあることは模範的な順法の場合だが、かならずしもこの通り守られているとは限らない(ただし、放出管理目標値は、通常守られている)。再処理工場などに対しても(管理目標値を甘くしたりするなどのことはあっても)、十分稀釈して環境へ放出するという考え方は同じである。
この考え方が有効なのは、(1)半減期が短い核種である場合(2)生物的濃縮を顧慮する必要がない場合などであると考えられる。
例えば放射性のヨウ素(元素記号 I )には131I と129I の2つの核種があるが、前者は半減期8.0日、後者は半減期1570万年とまったく異なる。ヨウ素は気化しやすく甲状腺ホルモンに必須であるため、原発事故では深刻な問題になる(甲状腺ガンなど)。しかし、通常の使用済み核燃料は再処理に回す場合6ヵ月以上の冷却期間をおいてからなので、131I はほとんど減衰している。それに対して129Iは弱い放射能であっても長い半減期を持つので、再処理工場の周辺に蓄積していくばかりである。いくら稀釈して放出しても、長年の間に蓄積していく。「茨城県東海村の動燃再処理工場周辺でも、雨水、表面土壌、海藻などに他の地域の十数倍~数百倍の濃度」が検出されている(野口邦和「原子力発電施設から放出される放射能」『原子力と人類』p113 リベルタ出版1990)。

生物的濃縮については、すでに(その4)で述べておいたが、いくら稀釈して環境に放出しても、生物が濃縮して体内に取り込み、それを餌にすることによって濃縮の度合いはさらに高まる。
一度環境に出た長寿命の放射性物質は、飲料水や食物をつうじて、濃縮されつつ人間に戻ってくる可能性がある。

いくら稀釈されても、放出された放射能は人間にとって(生物にとって)有害である。放射能は少なければ少ないほどよい。「低線量の放射能」の問題については、次章(その9)でまとめて扱う。


(5.5) 原子力発電と放射性物質

ここまで、原子力発電所の問題を見てきた。
原発の最大の問題は、運転が始まると莫大な量の放射性物質がそこに生みだされるということであった。だから、原発の運転にはけしてミスがゆるされない。しかも、新たに生まれたその莫大な量の放射性物質を含む使用済み核燃料を、ミスなく取り出し処理する必要がある。長期にわたって放射能をもつ廃棄物を、数百年から数千年にわたって、安全に完璧に隔離し保管する必要がある。

日本にはウラン鉱山が(事実上)ないのであまり深刻な問題意識をもちにくいが(例外的に、人形峠のウラン残土訴訟があった。関係者の粘り強い取り組みの果てに2006年解決。ウラン残土市民会議が詳しい)、鉱山労働者の被爆問題以外に、ウラン鉱山の尾鉱(精練後の廃棄する低品位鉱石、ウラン残土)は鉱山近辺に放置されることが多く、世界的に深刻な環境問題となっている。

原子力発電の問題は、原子力発電所だけの問題ではないのである。ウラン鉱山でウラン鉱石を掘りだすところから始まり、最終的に放射性廃棄物の長期にわたる隔離・保管(最終処分)にいたるまでの、各段階にそれぞれ問題があり、その全体を総括しないと、この原子力利用という技術がいかなる意味を持つものであるのか、評価できない。


ここで、原子力発電を総括的にまとめておこう。100KW級の原発1基を1年間運転する際に必要/排出される燃料/廃棄物を、前に引用した京都大学の小出裕章さんのレジメ厖大な核のゴミの始末のつけ方から、拝借しました。

工程コメント生産物廃棄物
採鉱鉱山労働者の肺ガンなどウラン鉱石13万トン残土240万トン
精錬工場粉塵による放射性公害天然ウラン190トン尾鉱13万トン、低レベル放射性あり
濃縮・成型工場放射性公害濃縮ウラン30トン劣化ウラン160トン、低レベル放射性あり
原子力発電所多量の放射性物質の生成100万KWの発電使用済燃料30トン、排熱、低レベル廃棄物ドラム缶1000本
再処理工場放射性公害は原発より一桁多いプルトニウム300㎏高レベル固化体30本、低・中レベルの廃棄物
貯蔵・処分地下水汚染、長期の保存は人類にとって未知の領域プルトニウム保存は数十万年以上

このまとめを見ていると、原子力発電によって電気を享受するというシステムが、いかに人間(生物)や地球環境にたいして破壊的であるか、よく分かる。わたしは特に、人間(生物)遺伝子に対して撹乱的汚染(ガンもそのひとつだが)をもたらしていること、未来の世代に対して申し開きようのない負荷をかけてしまっていることに我慢ならない。何世紀か後の世代から“20世紀後半から21世紀にかけての人びとはなんと短慮だったことか”と恨まれ軽蔑されるだろう。しかも、国家的な後押しと原子力委員会(名称はいろいろだが)による情報隠蔽と、マスコミによるミスリードによってきわめて多数の市民が徹底的に欺され何も知らされずに犠牲になった。

再処理」の工程は、おそらくもっとも早く閉じられるだろう(また、そうであって欲しい)。再処理とは、使用済み核燃料棒を持ちこんで、ウランやプルトニウムを回収して、再度燃料として使おうとする構想(プルトニウム・リサイクル)。一口で言えば、化学処理なのだが、放射性物質であり、きわめて多種の元素を含むことから、非常に困難で危険な作業である。
  1. 燃料棒の切断:このとき希ガスが不可避的に環境に逃げだす。燃料ペレットの粉砕。
  2. 硝酸で煮る:放射性の生成物を完全に溶解したい。白金族は溶けにくく、微小粒子として残渣が出る。
  3. 化学的分離・抽出:ウラン、プルトニウムを回収。高レベル廃棄物は貯蔵処理へ回す。
酸にもアルカリにも溶けにくい白金族が残渣として残り、フィルタの目詰まりを起こしたり、沈殿する。強い放射能を持つのでそれらは発熱しており、処理をあやまつと発火の危険性がある(1973年ウィンズスケール再処理工場の事故)。再処理工場は環境への放射能汚染が原発とは比べものにならないほど多い。原発では燃料を燃やしているだけであるが(放射性廃棄物を生成し続けているだけであるが)、再処理工場では廃棄物の詰まった燃料棒を切りひらいて化学処理しなければならないのであるから、危険度は比べものにならないのである。
プルトニウム・リサイクルは、高速増殖炉でウランを燃やしながら燃料を新たに生み続ける、という当初の“原子力の夢”を引きずっている、ともいえる。だが、高速増殖炉は、原子力利用の当初から手がけられているにもかかわらず、技術的な困難さが山積していて、見込みがないとして各国が撤退している。いまだギブアップを言わないのは、「もんじゅ」にこだわる日本の原子力官僚だけ、という状況になっている(フランスのスーパー・フェニックス炉もギブアップし、1998年からMOX燃料を燃やすだけのために、存続するということになった。なお「もんじゅ」は原型炉なるもので、それの成功さえ危ぶまれているのだが、そのさきに実証炉をつくり、その先でやっと実用炉となるというのです。文部科学省のサイト「もんじゅ」がひらく未来を見たら、一目瞭然。文部科学省も自信がない)。

高速増殖炉に見込みがないのなら、再処理をする意味がなくなる、ということになる。いいかえれば、核燃料サイクルの目玉がなくなる、ということになる。それならば論理的帰結として、再処理工場を閉鎖する、ということになるはずなのだが、日本では(世界で唯一だが)青森県の六ヶ所村に再処理工場を作り、運転開始をしようとしている。(ここから三陸側に出る温排水によって、海産物にどのような影響が出るか心配している。海産物への放射能の蓄積も危惧される。
むろん、ここでチェルノブイリ級の大事故があれば、日本列島には人間が住めなくなる、というシミュレーションを高木仁三郎はしている。

一度でもこのような事故が起こったら、永遠に日本の土地の多くとその上に生きる生命を失うことになるでしょう。問題は事故の確率の問題となります。(強調は引用者『プルトニウムのすべて』p224)
六ヶ所村は、地図を見ればだれしも直ぐ気がつくように沼や潟が分布している湿原のあるところである。地下水位は0mとしていいと思われるが、そういうところに、高レベル廃棄物の処分場を作ろうとしているのである。三陸沖、北海道沖の地震多発地帯であることもいうまでもない。こういう計画をすすめている原子力官僚は、正気の沙汰とは思えない。もし事故があれば、日本列島に人が住めなくなるかも知れないというような施設をつくるべきではない。その確率がかなり低いとしても(当たり前だ!)ゼロではないような場合、それに、税金を使うべきではない。

核燃料サイクルの目玉(高速増殖炉)なしで、なにをしようとしているのかというと、MOX燃料(プルトニウムとウランの混ぜもの)を使うというのである。これは“プルサーマル”という和製英語を作って、原子力官僚が宣伝していたが、世界に通用しないので近頃はMOX燃料と言っている。混ぜものをしてでも、なんとか、プルトニウムを燃料として使う、というアリバイをつくりたいということなのである。プルトニウムは数㎏で原爆ができるので、たえずアリバイがもとめられているのである。
電力業界に経済原理が存在しているアメリカではとっくに再処理工場はあきらめていて、使用済み燃料が出るとそれをそのまま、処理せずに、隔離・保管するということにしている。(現在、本格的な再処理工場が稼働しているのはイギリスとフランスであり、日本はそこへ処理を注文している。プルトニウムの輸送の問題など深刻さが増加している。


本論は「内部被曝」と題しているように、上で表記した原子力のシステム工程の全体を扱うつもりではない。わたしにそれだけの力も準備もない。ただ、内部被曝という観点は、1人の市民がこのシステム全体を批判する拠点として有効であると考えている。











内部被曝 (その5)  終わり















「内部被曝」について  (その8) 劣化ウラン弾

8.1劣化ウラン
8.2劣化ウラン弾
8.3「劣化ウランの放射能は無害」とする説
8.4ホット・パーティクル
8.5放射性物質におおわれた地球


「内部被曝」について (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8) 目次 へ


(8.1) 劣化ウラン

「劣化ウラン DU (Depleted Uranium)」について、改めて書いておく。

「deplete」を辞書で引くと、
 「~を使い果たす、使い尽くす、消耗させる、激減させる、 ・He depleted his savings. 彼は貯金を使い果たした。」
などとある。精力を使いはたしてフラフラの状態、消耗状態、というふうだ。「depleted mine」は、掘り尽くされた鉱山、「deplete one's strength」は、体力を使いはたす。したがって、「Depleted Uranium」となれば、放射能を使いはたしたウラン、という語感になる。
そもそもこの「Depleted Uranium」という語は、特殊な技術的語であって、一般のアメリカ人は知らない。すくなくとも、劣化ウラン弾がはじめて実戦に使われた湾岸戦争(1991年)前後までは。

次の引用は「中国新聞」の優れた長篇ルポ「知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態」(新聞連載は2000年4~7月)の一節。引用はここから。
ニューメキシコ州立工科大学のエネルギー物質研究試験セン ターは「試射場」をもっており、劣化ウラン弾の試射をくり返していた。1972~93年に40トンの劣化ウラン弾の試射を実施したと大学当局者が述べている。
その近くのサッコロ市の住民であるスペイン系移民のダマシオ・ロペスさんが、工科大学の学長に最初に抗議にいったときのことである(1980年代後半のこと)。

放射能兵器と知ったロペスさんは、証拠を示しながら実験の中止 を求め直接当時の学長と掛け合った。すると学長は、色をなして答えた。

「どうしたというのかね、君。depleted uranium という英語が理解できないんだろう。depleted,つまり放射能なんて含まれていなんだ。全くの無害だよ。英語の勉強をしなおすんだな」

日本語で「劣化」と訳されている「depleted」という英単語には「消耗した」「中身が空っぽの」という意味が含まれている。多くのアメリカ人は、その言葉を耳にすると、ウランではあっても「人体には無害」と受け止めるようだ。

しかし、ロペスさんにとって学長の言葉は、アメリカ社会の中で常に差別されてきた先住民やスペイン系住民への「侮辱」以外の何ものでもなかった。
「学長の言葉が私の人生を変えたと言っても過言じゃない」。人体への影響など劣化ウラン弾の実態を調べるロペスさんの一歩は、 そこから始まった。
なお、「中国新聞」(本社は広島市)の田城明が副学長に面会しインタビューするのであるが、副学長は田城に対してミエミエのでたらめの応答をする。(わたしは、ネット上に公開している上記知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態も、核時代の負の遺産(新聞連載2001年9月~02年7月)も、いずれも全文を読んだが、多くの場合のインタビューの現場で“ヒロシマから来た新聞記者”というだけで信頼感がグンと増したようだった。しかし上記の副学長の場合のように、警戒心をかき立てる場合もあったようだ。これら長篇ルポは様々な賞を受賞し、書籍にもなっている。また、英語版のサイトへのアクセス数も多いのだという。

さて、その劣化ウランであるが、一口でいえば、天然ウランから濃縮ウランをつくる際の残り物(残渣、カス、ゴミ)である。
天然ウランには238Uと235Uという2種の同位元素が含まれている。238Uは核分裂をしないが、天然ウランの99.3%を占めている。235Uは中性子によって核分裂をするが0.7%しか含まれない。原子炉の燃料にするには235Uの比率を高め2~5%にしたものを使う。これを濃縮ウランという(原爆にするには90%ぐらいまで濃縮する)。
この濃縮過程は、ガス拡散法とか遠心分離法など大仕掛けで大電力を必要とするものであるが、その過程では天然ウランから235Uを抜きとられて比率が下がったもの(残渣)が大量に出ることになる。それを劣化ウランというわけだが、通常は、235Uの比率が0.2~0.3%である。通常1㎏の濃縮ウラン(核燃料)を製造すると、劣化ウランが5~10㎏生じるとされている。

235Uは核分裂性である、238Uはそうではない、だから、前者235Uのほうがずっと放射能が高いという誤解が生じる。核分裂性と放射能(アルファ崩壊)とは別の性質であって、いっしょくたにしてはいけない(235Uのほうが放射能が高いのは本当であるが)。劣化ウランの危険性は放射能の問題であり、核分裂性とは別の問題である。
両者ともアルファ線を出すが、半減期は238Uが45億年、235Uが7億年。いずれも人間次元で考えると、無限に永いと思ってよい。放射能は半減期に反比例するから、238Uは235Uの約16%程度(7÷45)である。つまり、両方とも、永く持続するアルファ線源なのであり、前者の方がだいぶ弱いとはいえる。

しかし、濃縮ウランといっても235Uの含有率が0.7%から2%にあがった程度であるから、放射能の強さはそれほど上がったわけではない(原子爆弾用には90%以上に濃縮するが、ここではその話は略する)。劣化ウランについても同じことが言える。上にすでにあげてある数字から簡単な算術で放射能の比較ができる。
235Uの放射能を基準にして計算すると、
238Uを99.8% + 235Uを0.2%含む劣化ウラン
0.998×0.16 + 0.002×1 = 0.16168 ・・・ (A)

238Uを97.0% + 235Uを3.0%含む燃料ウラン
0.97×0.16 + 0.03×1 = 0.1852 ・・・ (B)

この比率を取って、A÷B = 0.873、すなわち、劣化ウランの放射能は燃料ウランの約87%
このように、劣化ウランとはいいながらその放射能は濃縮ウランと比較しても8割も下がらないのである。もともと、ウランはアルファ線をだすので、「外部被曝」の放射能としてはそれほど強いものではない。劣化ウランは、いくらか放射能が弱くなっているがせいぜい8割であり、アルファ線源としては似たようなものである。

















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